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長野県泰阜村「カルメル会修道院」縁起
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在りし日の馬場神父 納骨堂の写真
馬場清神学生は、後に東京教区の補佐司教になった森一弘神学生とは別な意味で忘れられない親友だった。
大阪府の地方公務員で労働組合の闘士だった彼は、九州の三井三池争議の応援ではストライキの座り込みの先頭にたって警官と渡り合った猛者だった。それが回心して上智大哲学科の教室では大阪教区の神学生として私と机を並べることになった。
60年代にパリ大学に始まった学生運動の嵐は、昨今のコロナ旋風のように地球を駆け巡って日本にも及び、上智大学の神学部も無関係では済まなかった。司祭の卵の養成を巡って神学生たちは立ち上がった。するとこんな暴力神学生の世話はまっぴらゴメンととばかりに、イエズス会は神学校から手を引き、その運営は司教団の手に移った。多くの神学生が旧態然とした神学校の現状に抗議して暴れ、「神父になるのは辞~めた!」と言って、神学校に後足で砂をかけて出て行き、仕事について結婚し、その結果司祭の志願者数は激減した。そんな中で、馬場神学生は、しぶとく大学に残り、司祭養成課程の単位を全部履修し終えた。
識別と判断能力を欠いた神学校の養成者たちは、そういう爆弾を抱えた神学生でもトコロテン式に司祭として叙階するしか能がなかったようだ。
旺盛な正義感と反抗心を絵に描いたような危険極まりない野生の馬場神父とその仲間たちは「雑魚」(ざこ)というグループを結成した。雑魚とは、タイやマグロのような高級魚ではないが、骨が固く尖っていて、あなどって迂闊に吞み下すと喉に引っ掛かって酷い目に遭う羽目になる魚のことだ。
その危ない「雑魚」の連中が X 神父裁判事件で大司教を向こうに回して原告の支援に回った。当時、X 神父(板倉神父)は大阪の田口大司教の教会運営の非を厳しく批判して小冊子をばらまいた。そしたら大司教は X 神父を幼稚園の園長職から解雇した。X 神父はそれを不当解雇として大司教を訴えた。その支援に回った「雑魚の会」の若い神父たちは、たちまち大司教から干されて教区外に飛ばされた。馬場神父と A 神父は障害者の夢のコロニー「あかつきの村」の設立趣意書を持って、支援を求めて全国の自治体を行脚した。私も賛同者の多様性の一翼を担って国際金融業を代表して趣意書に名を連ねていた。
しかし、彼らがスポンサーの自治体を見つけるのを待たずに、私はコメルツバンクの社員としてドイツに赴任した。そして3年余りして帰ってきて「おーい!馬場ちゃんは今どこにいるー?」と叫んだら、遠く泰阜村の方角から「ここだよー!助けてくれ~!」と声が返ってきた。
取るものも取り敢えず、飛んでいくと、彼は朝から大酒喰らって布団をかぶってふて寝していた。
彼の話を要約すると、スポンサーを探して全国を行脚している間は彼とパートナーの A 神父との仲はすこぶる良好だった。泰阜村の村長さんは主意書を見て、この奇特な青年たちはカトリックの神父だ。カトリックは世界の大宗教だ。つまり、信用度において右に出るものは無い。この過疎の泰阜村にようこそ。この土地をタダで提供する。農協からは要るだけの金を借りてもらって結構。夢と未来のある実に素晴らしいい企画だ。大いに頑張ってくださいと、とんとん拍子に話が進んで具体化した。こうして、「暁の村」プロジェクトは順風満帆の船出をして障害児たちも集まった。
ところが、金回りはよく、事業も安定すると、いろいろな人間の個性や欠点が頭をもたげるのは世の常だ。
専ら神様の方に目を向ける理想主義者の馬場神父と施設運営の現実に神経を注ぐ A 神父との仲がぎくしゃくし始め、先に我慢が出来なくなった A 神父さんが、ある夜、障害児を連れてこっそり夜逃げしてしまった。馬場神父が朝目覚めると、誰もいない。村に出てみると、人々の目は昨日までと一変して、冷たい刺すような視線を彼に向ける。逃げた神父らは村を去る前にさんざん馬場神父の悪口をばらまいて彼を悪者に仕立て、借金は全部彼の背に負わせて行ってしまったらしい。プロジェクトは壊滅し、農協の借金を返す当てはなく、さりとて、責任感の強い馬場神父は彼らの後を追って村を逃げ出すこともできず、身動きの取れない自暴自棄の中で酒を食らってフテ寝するしかなかったのだ。見ると縁の下には一升瓶の空き瓶がごろごろしていた。
「どうした?」「どうしたらいい?」と聞くと「金だ!」「金がないから首が回らない!」という。ドイツ帰りの銀行マンの私は幸い潤沢な金を持っていたので、借金は何とか返済された。
やっと一息ついた馬場神父は、村から貰って今は自分の名義になっていたかなり広い土地を一人で黙々と耕し、無農薬野菜を育て、収穫物は段ボール箱に詰めて友人知人にめくら滅法タダで送りつける。無論、お礼の手紙と金一封の寄付を期待してのことだが、ただの野菜を送りつけられた側は、苦笑しながらも支援金を送る。こうして馬場神父は少し立ち直った。
一方、ドイツから帰ってきたばかりの私はちょっとした有名人になっていた。
ローマで知り合った毎日新聞の特派員の西川さんが、毎日新聞の夕刊一面トップ半ページを割いて、ひげ面の私がイタリアの共同体でミサをしている写真入りでバンカー(銀行マン)から転職した異色の神父として紹介したからだ。そしたら、後追いで「週刊東洋経済」が「人生二毛作」という連載に3号にわたって私の記事を書いた。産経新聞もその他のメディアも私を取り上げた。あちこちから講演会を頼まれた中で、西宮の女子カルメル修道会の院長様からは、シスター達の黙想会の指導司祭として招かれた。その時、私は院長様から相談を受けた。カルメル会の創立者の大聖テレジアの書いた会則によれば、ある修道院に新入会員の召命が相次いで人数が一定の数を越えると、分蜂して新しい修道院を開いて別れることになっている。
そして、今の時代には珍しく西宮の修道院に入会者が相次ぎ、しばらく前からその決められた数を超えて30人近くに達していた。「しかし、会員の姉妹たちの間では意見が二分して纏まらない。会則を順守して分かれるべきだという声と、今は一時的に超えているが召命が途絶え高齢の姉妹たちが相次いで天国に旅立てばたちまち数を割り込むから慎重に様子を見た方がいいという声が拮抗している。神父様はどう思われますか?識別してください。」ときた。私の返事はもちろん決まっている。「将来のことは神様に委ねて、今は会則を守って修道院を分割すべきでしょう!」と言うと、どうやら院長様の心は決まったようだった。
そこへ阪神淡路大震災が阪神圏を襲った。大阪教区の教会・修道院は軒並み多大な被害を受けた。教区から追放された流浪の身とはいえ、馬場神父は大阪教区の司祭だ。心配して八方電話を掛けるが、災害の混乱の中、回線が寸断されてなかなか電話が通じない。たまたま西宮のカルメル会の修道院と電話がつながった。「如何ですか?」という馬場神父の見舞いの声に、「聖堂の屋根が壊れ、修道院は大被害、助けに来てください」「ではすぐ参りましょう。待っててくださいね!」となって、馬場神父は軽トラックにスコップや大工道具やブルーシートに食糧まで積み込んで被災地に向かった。道路寸断の中、苦労をしてカルメル会の修道院に辿り着くと、男手がなくて難儀していたシスターたちからは大歓迎を受け、早速働き始めた。壊れた聖堂の中には、亡くなった近隣の人々の棺がいくつも仮安置されていた。馬場神父はその被災者たちを助け、棺の番をし、祈りを捧げて日を過ごしていた。
災害後の混乱の中ではあったが、馬場神父の親友の谷口神父が修道院の分蜂に賛成だと言う話は聞いただろう。そこへ、亡くなった被災者のある遺族からは大変お世話になったからと、カトリック信者でもないのに大金の遺産の寄付の申し出が修道院にあった。そのことを知った馬場神父の頭には、修道院を建てるのなら泰阜村から貰った土地があるからそこを使えばいい、というアイディアが閃いた。
谷口神父は分蜂を勧める。土地は見つかった、お金も降って湧いた。3拍子揃って、新修道院の設立の話はにわかに現実味を帯びることになった。そして新しい修道院が誕生した。
泰阜村の修道院の門柱
あれから20数年の歳月を経て、私は今、その泰阜村のカルメル会修道院の客室に泊まりこのブログを書いている。どうして今、私がここに泊まっているのかについては、次のブログに譲るとしよう。
修道院のお告げの鐘と十字架
(つづく)