~~~~~~~~~~~~~~~~
「おりふれ通信」をご存知ですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
今日もまた「おりふれ通信」が届きました。
このブログの読者にはそれを知る人は皆無でしょうね!
それは、日本では超マイナーな、しかし、超まじめに日本の精神医療を良くしようと孤軍奮闘しているグループ「おりふれの会」の機関誌です。
私は、精神病院の中で長年を過ごした妹の治療と退院と社会復帰のために、カトリックの司祭職への道に踏み出すまでの半分の人生を賭けてきた中で、この「通信」と出会いました。
日本の精神医療行政の後進性。精神医療現場の非人道的な現実、その恥部、暗部、を告発し、必要なら国を、国立病院を、悪徳私立病院を相手取って、裁判も辞さない積極性に、私は強い共感を覚えました。
編集スタッフの中には、外国語に堪能な人もいるらしく、海外の進んだ現場の報告も常に紙面を飾っています。
その私の「おりふれ」との出会いのきっかけを思い出させてくれたのは、私のホイヴェルス神父様の短編を取り上げたブログに対する、数日前の コスモス さんからのコメントでした。
〔コメント〕
お母様のお写真 (コスモス)
2023-07-25 23:37:54
和服姿の27、8歳の頃のお母様のお写真がブログの下の方に出てきて、どなたかしらとクリックすると、この記事が出てきました。
お母様でしたか。若きシスターのお姿のお姉様に似ておられると思いました。神戸女学院をご卒業だったのですね。お姉様が中学受験で女学院に合格されたことを、お母様は病床でお知りになられたのでしょうか。或いは、既に他界されていたのでしょうか。女学院は阪神間では私の時代でも別格でした。阪神間の模試で二桁の順位をとらないと、入学してからが大変だと私の時代は言われていました。
私の父が、昭和9年、3歳の時に実母を妹のお産で失い、継母が5歳の時に来ました。そしてその人に男の子が生まれました。こういう話は、1つの家の中で経験した人しかわかりませんが、家の中に他人がいるような感じ、いい意味では、とても家中がきちんとしていて、親子でも敬語で話すのが当たり前で・・・、私の父は、下着姿で家の中を歩くことはなく、自分の洗濯物は、自分でしていました・・・。私の実家は、いつも整えられたお茶室のようでした。
私の本当の祖母(父の実母)も31歳で他界しています。
それも摂理だったのでしょうが、若い31歳のお母様が子供達を残して亡くなられるというのは、本当に胸がいたみます。
私を生んだ頃の母 修道女になった姉
それに対して、私は次のようにお返事を書きました。
コスモスさんへ (谷口 幸紀)
2023-07-27 22:03:11
コメント有難うございました。お返事が遅くなってごめんなさい。
姉が神戸女学院に入学したのは、多分1950年の春だったと思います。
母、喜久代は1948年10月22日に肺結核で亡くなっていますから、姉の神戸女学院入学の晴れ姿を見ることがありませんでした。しかし、父は妻の母校に長女を入れたかったのでしょう。
しかし、妹の素子が中学に入るころには、父はすでに再婚し、その母から弟が生まれていたので、家族の関心はそちらに向いていて、新しい配偶者に対する配慮からも、妹を先妻のゆかりの学校に入れることなど問題外で、地域の学費の安い市立中学に入れられることになりました。
兄の私も私立カトリックミッションスクールの六甲学院だったので、自分も当然姉と同じ神戸女学院に行かせてもらえるものと思っていた妹は、言葉や態度にこそ出さなかったものの、内心は大いに傷つき失望したであろうことは、想像に難くありませんでした。
そのような挫折感は、後日妹が統合失調症と判断されるような言動に走ったことの一因ではなかったかと思うと、とても不憫でなりませんでした。
その後私は、姉も含まれる家族全員を向こうに回して闘いながら、家裁で妹の保護義務者の地位を取得して、妹の退院、社会復帰のために半生を賭けて、ようやく妹の寛解と不完全ながらの社会復帰を見届けて、国際金融業から足を洗い、司祭職への道に進んだのは50歳の時でした。
妹の社会復帰のニュースを聞き知った姉は、すでにカトリックの修道女として宣教地、アフリカの最貧国ブルキナファソで働いていましたが、妹の面倒を見るためにという名分で帰国しました。しかし、入れ違いに私がローマに神学の勉強をしに行っている間に、姉は再び妹を精神病院に入れてしまいました。
すでに仕事もお金も捨てていた私は、遠いローマで貧乏学生。夏休みごとに帰国し、妹を病院に見舞い、「あと〇〇年したら一人前の司祭になって帰ってくるから、また退院して自由な生活が出来るようにしようね」、と慰め励ますほかになす術がありませんでした。
しかし、妹はその○○年が待ちきれず、私の司祭叙階式のわずか1カ月前に、病院で自死してしまったのです。
私は、抜け殻のような虚ろな心で自分の司祭叙階式を迎えました。心の中で、「神様、もしあなたがこのカードを前もって私に見せていたら、私は決して司祭になどならなかっただろうに」と恨み言を言っていました。
今の私の司祭職のスタートには、このような出来事が秘められていたのでした。
* * * * *
わたしもコスモスさんのお父様と同じような境遇で多感な青春時代を過ごしました。私は父が再婚したときーそれは私の10歳の頃でしたー私は生涯このご婦人とコトを構えることはすまい、と心に固く誓い、それを守り通しました・・・。
しかし、長い話はやめて「おりふれ」に戻しましょう。素子を巡る私の半生の闘いについては、私の最初の本「バンカー、そして神父」(2006年、亜紀書房)にすでに詳しく書いている。興味のある方はそれを読んでいただきたい。
たまたま、最近の「おりふれ通信」には、以下のようなチラシが折り込まれていました。これも妹、素子、と無関係ではありません。
* * * * *
スマホやタブレットで私のブログをお読みの皆さんには、上の3コマ漫画の吹き出し文字は小さく不鮮明で読み取れないだろうと思い、ここに書き出します。
先ず左のコマから:
〇 40年間、意思がない生活でした。
〇 ご飯を 食べなさい 仕事をしなさい 寝なさい
〇 ただただ、言われたことを やりました。
右上のコマ:
〇 退院したいと 何度も 相談したけれど
〇 御家族の 同意なしには 退院できません
右下のコマ:
〇 え、退院に 家族の同意?
治っても?
〇 退院後、
家族への 支援が 少ないの
私の愛する妹、素子も、死んで棺桶に入らなければ病院から出られなかった。これについては、もっと、もっと、書けるけのだけど、あまりにも重い課題なので・・・。それに、ある部分は前出の「バンカー、そして神父」にも詳しく書いている。
「おりふれ」は家族でもないのに、日本中の何十万人、もしかしたら百万人台の「素子」たちのために、日夜地道な活動を続けてくださっている。実に頭が下がる。私は、死ぬまでその読者として購読料を払い続けたいと思っています。
妹様のことは、このブログの記事を読み、その後に神父様の本にあることを読み知りました。
検索すると、次が出てきました。
NHK 「NHK 福祉情報サイト ハートネット」の、「社会的入院を考える(1) 長期入院患者の地域移行 精神科病棟 閉鎖までの日々 (もう一度外へ)記事公開日:2023年01月25日」
冒頭は、「精神科病院に1年以上の長期入院をしている患者は、日本におよそ16万人。その背景となった国の政策は国際的な批判を受け、退院を促す方針に転換したものの状況は進展していません。そんななか、都内のある病院が長期入院の病棟を閉鎖し、全員を退院させるという大きな決断を下しました。戸惑いながらも、退院支援を受け、病院の外での生活に希望を見いだそうとする患者の姿と現状を見つめます。 」
「退院支援に立ちはだかる壁」
「65年前に設立された東京調布市の精神科病院『東京さつきホスピタル』は、無期限の入院を受け入れる慢性期病棟を2022年11月で閉じることにしました。」
「退院の難しい患者たち。その多くは、最初から長期の入院を予定していたわけではありません。」
「入院歴45年の松田さん(仮名)は、当初はすぐに退院したいと考えていました。」
「まだ若いころ、私、『退院したい、退院したい』って先生にしょっちゅう言っていて、先生は『もうちょっと』と。私は退院したかったんです。退院して仕事したかったんです」(松田さん)
「しかし、入院が長期化していくなかで、退院への思いは薄れていきました。
症状が落ち着き、医師から退院を勧められるようになると、松田さんは体の不調を理由に外に出ることを拒むようになったのです。」
外からの接触や刺激を長期間絶たれた多くの人は、外の世界(世の中)が怖くなるように思いますし、外からの刺激に大変過敏になるように感じます。世の中には恐ろしいことが多くあることも事実だと思いますが。
神父様の本にもあることがここにも書いてあります。
「1950年代から70年代にかけ、日本では精神科病院が急増。背景には国の政策がありました。
国は精神障害者の入院を推進する政策を打ち出し、医師や看護師数の基準を緩和。患者一人にかける手間を減らし、病床数を増やすほど儲かる仕組みにしました。
患者を入院させ続け、病床を埋めることで、病院経営を成り立たせる構造が一般的になっていきます。
その結果、長期入院の患者も増加。精神科病院に1年以上の長期入院をしている患者は、現在およそ16万人いるとされています(2021年精神保健福祉資料より)。」
障害者総合支援法は名前を変更し、改正が続いているようですが、善きことになるように願います。ロザリオの祈りでは、医療従事者の方々の病気の方との関わり方の研究がこつこつと進むように唱えてきました。これに加えて、地域医療の進展のことも唱えようと思います。神父様の本を読むまでは精神科病院の経営のことは知りませんでした。わたしの居住地域の近くにある多くの病床をもつ精神科病院のことは噂では知っていました。今、どのようになっているか調べてみようと思います。