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スペイン旅行(その-1)「カルメンの墓」「キコの家」
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(実はこのブログ、5月14日の《スペイン旅行(そのー2)》より先にアップするはずのものだった)
4月27日に日本から新求道共同体の一団がローマにやってきた。5月5日の共同体の活動50周年記念の大集会に合わせて、はるばるやってきたのだ。
私は次の日に合流して、一緒にスペインに発った。ライアンの格安航空で。
ローマとマドリッドを直線で結ぶと、ちょうどマジョルカ島のポルト・ダ・ポリェンサの上を飛ぶことになる。
着いたらまずカルメンの墓のあるマドリッドのレデンプトーリス・マーテル神学院に向かった。
カルメンの墓。1930年生まれはキコや私より9歳年上だ。2016年に86歳で逝ったことになる。
白い大理石の簡素な墓だ。
私も日本語とローマ字で記帳した。カルメンの右隣りの空の墓はキコのためだろう。そして、二人の奥の横向きの墓はマリオ神父のものと思われる。
この時点で35人?そのほかに1歳未満の乳飲み子を含む3人のおチビちゃんたちがどこかに隠れているはず。
ゼロ歳から83歳までの男女の不思議な集団。
キコの生家に着いた。 ぼさぼさの街路樹の後ろが入口。
入り口のドアのは教区立新求道共同体センターとあるが、教区立とは?
キコが住んでいた頃の室内の調度や雰囲気を保存すると言うよりは、人が集まって使い勝手がいいように改装されている感じ。
広さとしては一家族には十分すぎるものがある。
集会場として天上に手を加え、壁には新しくキコが壁画を描いている。
キコの初期の画風の絵が数舞壁を飾っている。いずれもオリジナルと思われる。
キコは現代に相応しい宗教画のスタイルを創出しようと試行錯誤を重ねてきた。
20歳台の美術アカデミーの学生時代のキコの寝室と思われる部屋は意外と狭く、4帖半の変形ぐらいしかなかった。
壁は落書きだらけ。
釘打たれたキリストの手だろうか。キコも釘は手のひらに打たれたと考えているようだが、それは史実と違うのではないか。聖骸布によれば釘は手首を貫いている。
初期の人の顔は写実的。キコのデッサン力は一定水準を越えている。
これは数少ないキコの自画像だ
父親のポートレートもこの部屋の壁に直接描かれている。
抽象的な図柄もある。それに署名を大書している。
彩色された落書きも
ドアにまで絵を描いている
外に出ると通りの向かえの建物が自然に目に入った。
次の日は日曜日だった。スペインにいる間この日だけ雨に降られた。ユニクロの薄いダウンの上着が肩のあたりは肌着まで水が通ったが、午後にはいつの間にか乾いていた。
団体用のバスの停まれる場所からマドリッドのカテドラルまでの途中に公園があった。痩せ馬にまたがったドン・キホーテとロバに乗ったお供のサンチョパンサの銅像を、作者のセルバンテスが上から見下ろしている。
カテドラルは日曜のミサに与る信者と、中を見物しようと押し掛けた観光客が鉢合わせして、行列してのろのろと中に入ることになった。中は礼拝が挙行中で、ミサにあずかって祈るために動かない信者と、動き回りたい見物客の間に緊張があった。正面祭壇を取り囲む内陣にはキコの壁画とステンドグラスがあるのだが、それを見える位置にはとても潜り込めなくて断念。側廊の柱の間にはキコの壁画に囲まれて、彼のマドンナの絵の本物が安置されていた。鉄の格子の間にレンズを差し込んで撮ったのがこれだ。石の厨子の中央に金色の枠と宝石に囲まれているのが、キコのマドンナの絵。元々はキコのお母さんの寝室の枕元にあったものだ。
保護のためにはめたガラスが反射して絵が見えにくいが、このコピーは世界中に広まっている。マドリッドの大司教区も、キコとその運動を受け入れている。
(終わり)