:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 世の終わりは本当に近いのか? ―あなたの死から復活までの時間は?―

2012-12-08 09:45:52 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

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世の終わりは本当に近いのか?

―あなたの死から復活までの時間は?―

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写真は大銀河系 M101 (ウイキペディアから借用)


ヨハネの福音書には妙な話が出てくる。

「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。・・・・』それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。」(ヨハネ21章22-23節)

これは一体どういうことか?

「彼」とは明らかにこの福音書を書いた、イエスに最も愛された年若い使徒ヨハネその人なのだが・・・・。

イエスがヨハネを12人の弟子たちの中でも特別に愛していたことは、聖書に度々出てくる。イエスはそのヨハネが死を見ることに耐えられぬほど彼を溺愛し、彼が生きている間に急いで再臨する(つまりこの世に再び帰ってくる)ことを望んだということだろうか?

そう言えば、イエスは十字架の上の末期の息の下で、自分の亡き後の愛する母マリアをヨハネに託しもしたのだったが。(・・・・だが実際には、そのヨハネも自然の摂理のままに年老いて死んでいる。)

 ユダヤ人もキリスト教徒も、そして、回教徒も、建前としてはみな復活を信じていることになっている。これは輪廻の思想と根本的に対立する全く別な歴史観だ。(というより、輪廻の世界には、はじめから本当の意味での歴史はあり得ない。)

この世界は神の無からの創造によって始まり、終末をもって終わり、終末にはキリストが再臨し、全ての死者は復活し、新しい天と地が始まり、その世界には終わりがないとキリスト教は教える。

 「新しい天と地」の世界がどんなに素晴らしい世界かは、今の人間の想像をはるかに超えるものがあるが、一つだけはっきり分かっていることは、その世界もまた物質によって構成される物理的世界だということだろう。何故か?

それは「体の復活」の信仰からわかる。「体」とは他ならぬこの生身の人間の「肉体」のことであり、それは物質によって構成されたものだから、体が甦るということは、物質があると言わざるを得ないということだ。

キリストの復活体 ―したがってそれに与る私たちが復活の日に身にまとうであろう肉体― がどんなに輝かしく高められた素晴らしいものであるとしても、物質的「からだ」であることだけは絶対に変わりがない。そして、人間の体との関連性において物質的世界としての宇宙も高められ霊化されつつも存続するに違いない。

さて、先に引用した聖書の言葉、「私が来る時」とは、世の終わり、つまり終末の時を指す。死んで復活してこの世から一旦姿を消したキリストは、世の終わりに「復活体」を身に帯びた生身の人間として再臨すると弟子たちは ―従って、キリストの弟子であることを自認するすべてのキリスト者も― 信じているからだ。

上の福音書の記述から、ナザレのイエス自身が、自分の受難と死を前にして、世の終わりがごくま近に差し迫っていると「錯覚」していたとまでは敢えて言わないが、弟子たちの中にはそのような考えがあったらしいことが推察される。

 若い学生の頃、聖アウグスチヌスの古典的名著「告白」や「神の国」を読んだとき、彼が司教をしていた北アフリカのヒッポの街がゲルマンの蛮族に滅ぼされようとしたのを見て、彼も「世の終り」が到来した思ったらしいことを読んだような記憶がある。

 中世以後のカトリックの聖人たちの多くも、戦乱や、ペストや、飢饉や、道徳の退廃を見て、「世の終わり」は近いと思った例は多いようだ。聖書にそれらが世の終わりの印だと書いてあるのを知っていたからだろうか。そして、それは末法思想として世界に共通の現象と言える。

 現代でも、プロテスタント教会の末端に連なるセクトの中には、「何年何月何日に終末(世の終わり)が来るから急いで悔い改めて回心せよ!」、の類の警鐘を鳴らす例がある一方で、キリスト教とは関係ないが、ノストロ・アダムスのようないわゆる「予言者」の言葉として、同じようなことを吹聴する例が後を絶たない。

 しかし、キリストの弟子たちにはじまって、多くの聖人たちも、巷の偽預言者たちも、今までのところ全員が思い違いをし、預言は外れ、この世界は今日も悠々と未来に向かって時を刻み続けているのはどういうことか。

 私は聖人でも預言者でもないただの罪深き「リアリスト」だから、聖人たちや霊感の持ち主たちがどうして歴史から学ぶことをしないで、相も変わらず同じ錯誤を繰り返して、性懲りもなく「世の終わり」はま近に迫っているという誤った想念に囚われるのか、不思議でならない。私は、「世の終わり」―したがって、キリストの再臨―は、気の遠くなるほど悠久の未来までは決して来ないと確信している。その根拠は何か。

 天地万物の創造主なる神は、旧約聖書の冒頭、創世記の第13章16節で、ユダヤ人の太祖アブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」と言い、15章5節では、神はアブラハムを外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」と。

 地球の人口は今日現在71億人に迫ろうとしている。人間は浅はかにも、このまま人口爆発が続けば、地球は狭くなって住めなくなり、食糧不足で死滅する。だから赤ん坊(胎児)を殺してでも人口抑制しなければ、と危機感をあおっている。愚かな近視眼だ。

 神が言うのなら、試しに星の数を数えてみよう。人間の科学の目は今のところ140億光年の彼方までしか見えないが、その範囲だけでも100兆(10の14乗)個の星を持つ大きな銀河系が3500億個、数十億(10の9乗)個の星を持つ矮小銀河が7兆個あるそうだ。そして、その各星が太陽のように数個ずつの惑星を持つとすれば、事実上無限個の惑星があるということになる。

 ノーベル賞級の頭脳をもってしても永久に極めつくせない秩序を秘めた宇宙の星々は、単に詩人が夜空を眺めてロマンチックになるためだけにあるのではないだろう。

 旧約聖書の創造主なる神は、人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」(創世記1章28節)と命じたとき、その「地」はこのちっぽけな地球だけを指したのではないことは子供にもわかるだろう。「すべてを支配せよ」の「すべて」の中には、上の実質上無限個の星々、無限個に近い惑星をも指しているに違いない。

 近い将来、人類が愚かにも地球規模の全面核戦争を始めて、この美しい青い星が放射能汚染で住めなくなったとしても、それが世の終わりではあるまい。今から43年も前にアポロ11号が月面に着陸して初めて人が月の大地に降り立って以来、10回も人を月に送り込み、月面ドライブまでやった人類のことだから、必ず大金持ちと科学者のチームが地球を脱出してひとまず月に避難するだろう。

そんなことにならなくても、人類は必ず近い将来、経済的採算のめどが立ち次第、宇宙に拡散するに違いない。その時、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」と言う神のことばは現実味を帯びてくる。そして、人の子の種はあらゆる困難を克服して、必ずや宇宙に拡散していくだろう。

しかし、人類は光の速さより遅い速度でしか旅することができないとすれば、しかも宇宙は今後も膨張し続けるとすれば、140億年以上の時間をかけても宇宙の果ての星にまでは到達できまい。

では、「世の終わり」は永久に来ないだろうか。いや、そうでもあるまい。世の終わりは、結局、神が「もうそろそろいいだろう」と判断されたときに突然やってくるのではないだろうか。しかし、それは50年とか100年とか先の近未来ではなく、何億年、何十億年先のことと考えた方が理にかなっている。

と言うことは、あなたが、そして私が、死んでから、世の終わりに、つまり、キリストの再臨と新しい天と地の始まりの時に、復活するまでには、同じように何億年、何十億年の時の流れを待たなければならないのだろうか。

私は実はそうは思っていない。だが、それは次回に詳しく解明するとしよう。

(つづく)

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★ キリストは「メシア」か? では「王」か? ―賢い少女の答え―

2012-12-04 21:34:50 | ★ 新求道共同体

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キリストは「メシア」か? では「王」か?

― 賢い少女の答え ―

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 カトリック教会の典礼暦(カレンダー)は1月1日に始まるものではない。それは、クリスマス(12月25日)の週の3週前の日曜日(待降節の第1主日)から始まり、翌年の春の「復活祭」をピークに、晩秋の「王たるキリスト」の日曜(今年は11月24日)の週で終わる。

 また、カトリック信者の典礼的一日は、深夜0時に始まるのではなく―ユダヤ教の伝統を受け継いで―日没に始まり日没に終わるのがバチカンの正式の決まりになっている。私は、今年の「王たるキリスト」の祝日のミサを、ローマ市の中心にある「主のご降誕教会」でその祝日が始まったばかりの23日夜8時から私の共同体の兄弟姉妹と盛大に祝った。

 ミサの中では聖書の朗読がある。その後、私が短い説教をすることになっているのだが、新求道共同体のミサでは、説教の前に信者たちが、今聞いたばかりの聖書の言葉について、この「みことば」が自分の心にどう響いたかを自由に分かち合うことが、バチカンの典礼省から文書で正式に認められている。

 ミサにはたいてい子供たちも参加している。誕生してまだ年の浅い共同体は、若いカップルが多いから、子供たちもうじゃうじゃいるが、私の共同体は誕生23年のベテラン、中学生以上の子供たちはとっくに親から離れて若い共同体に移っているから、残った子供は6-7人しかいない。

 分かち合いでは最初に子供たちに話させるのが習慣だが、それを問答形式でリードするのは司祭ではなく、親たちの中から選ばれた誰かの役と決められている。これが、世代を越えて信仰を伝えていく実に大切な役割を担っている。

私は、その日一番目立った10歳ぐらいの女の子の言葉に痛く感心して聞き入った。どこからこのような賢い洞察、聖書理解が生まれてくるのだろうか。それは、物心ついたころからの家庭における宗教教育の賜物なのだが・・・・。

 その日の対話を忠実に再現するために、少しだけ我慢して聖書の言葉にお付き合いいただきたい。「王たるキリスト」の祝日に朗読された福音の箇所は以下の通りだった。(ヨハネによる福音18章33節b-37節)

  〔そのとき、ピラトはイエスに〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか。」
ピラトは言い返した。「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしが引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
(朗読はここで終わるが、聖書はその後に)ピラトは言った。『真理とは何か。』ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』と続く。

 問答はおよそこんな風に展開した。リード役の男性が子供たちを見まわして聞いた。

「ねえ、子供たち。今、神父さんが朗読した聖書の言葉をちゃんと聞いてたかい?」

(子供たち)   「・・・・・・。」

(リード役)   「今日は何の祝い日だっけ?」

(一人の男の子が手を挙げて) 「はい、『王たるキリスト』の祝い日でーす!」

(リード役)―隣の小さい女の子の目を見て―   「では、イエス様は王様?」

(小さな女の子) 「そーでェーチュ!」

(リード役)「イエス様は自分でそう言ったの?」

(子供たち)「・・・顔を見合わせて長い沈黙・・・」

(リード役が何か言おうとしたとき、少しお姉さんの女の子が)

「答える代りに質問したのよ。」

(リード役)「おや、どうして?」

(大きな女の子)「だって、王様だと言えばローマ人に殺されるし、王様でないと言ったら嘘ついたことになるんだもの!」

 私は、その女の子の賢い答えを聞いて舌を巻いたが、このブログの読者の皆様にはまだ話のポイントが見えていないかもしれないから説明を続けましょう。

 イエスの時代のユダヤ人社会は、長年のローマ帝国の圧政をはねのけて、強力なユダヤ人王国を興すメシアの到来を待望していた。そこに貧しい民衆の圧倒的人気と共にイエスが登場した。ユダヤ社会の指導者は彼が「メシア=ユダヤ人の王」として立つことを期待した。しかし、イエスはその期待を裏切り、かえって彼らの偽善と腐敗を厳しく糾弾した。怒った彼らは、キリストの弟子のユダの裏切りを期に、彼を「偽預言者」とローマ帝国に「謀反を働く者」と言う廉でローマ人に訴え、亡きものにしようと企んだのだった。

 アメリカのお尋ね者「ウサーマ・ビン=ラーディン」は結局あのような死に方をしたが、仮に、密告者の通報で手配写真のビン=ラーディンに似た男が生きたまま確保されたとしませんか。アメリカ軍の指揮官が、「お前はアルカイダの指導者か?」と聞いて、あっさり「そうだ」と認めたら、フセイン大統領のように、裁判から死刑へと話は展開しただろう。

 ところが、生け捕りにされた男が、貧しい大衆に人気絶頂のスンニ派イスラムの高潔な預言者で、武闘とは関係のない人物が、アルカイダのリーダーに祭り上げられるのを断ったために同胞から裏切り者として売られたのだと判ったら、あとの話は全く違ってくる。

 イエスとはそういう立場に置かれていたのだった。

 ピラト(ローマ帝国の総督)はイエスがユダヤ人指導層の期待に添って反ローマ帝国支配の蜂起を指揮する政治的リーダーシップを執ることを拒んだために偽預言者、偽メシヤとして血祭りに上げられようとしていることを察した。だから救ってやりたいと思った。しかし、自分の管轄下で騒動が起きるのも面倒に思ったに違いない。

 そこで「お前は王か」という罠を秘めた問いをした。「そうだ」と答えれば、ローマ帝国が承認していない王を語って帝国に反逆を企てる者として死刑にし、ユダヤ人指導者の不満を解消し、面倒を回避できる。しかし、イエスが否認すれば、有罪を宣する決め手が見つからない。無実を宣して釈放するのが正義だろう。

ピラトが「ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』 」と言うくだりがそれを示している。

 イエスが「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と言ったのは、私はこの世の覇権を打ち立てる「王」として来たのではないが、魂の救済をもたらす「メシア」として来たのだ、と言いたいのだろうが、ユダヤ人の指導者が「メシア=王」と考えているので、その言葉は危険だとして使われなかった。

 他方、イエスの弟子の頭のペトロは、その時武器(剣)を携帯していて、兵士の一人に切りかかり、耳をそぎ落とした。他の弟子たちも護身用の短刀ぐらいは持っていたかもしれない。しかし、イエスの「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26章52節)という言葉を聞いて戦意を喪失し、キリストを棄てて散り散りに逃げ去ったのだった。

 ピラトが重ねて、「それでは、やはり王なのか」と迫っても、イエスは再びはぐらかし、「真理」論争に話を逸らせる。
 イエスはピラトの仕掛けた罠―「お前は王か」―を遁れた。ピラトはキリストを尋問して、無実の聖者であることを確信した。それなのに、結局イエスは十字架の上で死ぬことになった。ピラトはユダヤ人指導者の嫉妬と憎悪の激しさを前に、騒動の持ち上がるのを恐れた結果だった。

 私は、小さな女の子が、「お前は王か」というピラトの問いの中に、「罠」が存在することに敏感に気付いたことに驚き、舌を巻いた。このような、毎週のミサの中の問答を通して、子供たちは少しずつ聖書に習熟し、年齢と共に次第に子供の信仰から大人の背丈に合った信仰へと成長していくのだろう。親に手を引かれて教会に通っているうちはいいが、次第に独り歩きし社会に巣立っていくとき、年齢に相応した信仰の成長と充実がなければ、世俗化しグローバル化した「神無き社会」で信仰を護り続けることはほぼ絶望的だ。若者たちの教会離れはそこから来ている。

 そんな中で、新求道共同体の若者たちの多くが、思春期の難しい時期を越えて信仰を守り続けるのだ。

(終わり)

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