神が宿るところ

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御穂神社(駿河国式内社・その8)

2010-10-05 21:07:08 | 神社
御穂神社(みほじんじゃ)。祭神:三穂津彦命(大己貴命)・三穂津姫命。
場所:静岡市清水区三保1073。国道150号線「駒越東町」交差点から北東に向かい、三保半島へ。同交差点から約2kmで「羽衣の松」という大きな案内看板が出ている新しい道路を右折(東へ)、突き当りを左折(北へ)すると、当神社前に到着。駐車場あり。
社伝によれば、大国主命(大己貴命)が天津神に国譲りをしたことを喜び、高皇産霊尊の娘の中で最も美しい三穂津姫命を大后とした。大国主命は三穂津彦命と改名し、御穂津姫命と羽車に乗って新婚旅行に出かけた(坂本竜馬夫妻よりも遥かに早いね。)。景勝の地「三保の浦」に降臨し、鎮座したのが当神社であるとする。
「三保(ミホ)」という地名について、「式内社調査報告(第9巻)」(昭和63年1月)は、日本三代実録が当神社を「御廬神」と記していることから、「廬原」の「廬」と同じで「ミイホ」が訛ったものとしている。また、同書は、三保半島が元は独立した島であって、神の坐す島として、対岸の廬原郡の人々に信仰を受けたのではないか、としている。
小生はこれらの点について、少し疑問を持っている。まず、三保半島が砂嘴として有度丘陵とつながったのは約5千年前とされる(松原彰子慶應義塾大学教授による)ので、いささか古すぎるだろう。むしろ同書が一説としてあげている、「崎をホといい、崎が3つあるからミホ」のほうを採りたい。あえて独立の島であったとしなくても、三保半島は砂地で稲作に適さないから、有度郡からの入植は進まず、海人族であった廬原郡の人々が漁業の基地として半島の北側の「崎」(ホ)を使っていたのではないか。
因みに、3つの崎は、北から「真崎」、「貝島崎」、「弁天崎」という。元禄時代のことになるが、幕府の命で全国の絵図改め(検地)があった際、廬原郡と有度郡の境は巴川であり、三保半島については巴川河口(当時は入江・江尻辺りにあった)と貝島崎を結んだ線(「見通し」)をもって郡境とした(これにより、当神社は廬原郡内に鎮座していることになる。)。その根拠は、古くからの言い伝えによった、という。
こういうようなことを考えると、「ミイホ」よりも「ミホツ」(三保津=三保の港)であり(※)、ここから御穂津姫命につながり、その後、夫神である大国主命(大己貴命)を祭神に持ってきた、ということなのではないだろうか。
「白村江の戦い」に廬原君臣が水軍を率いて参加した、というのも、式内社「久佐奈岐神社」をみると何となくイメージに合わないが、当神社をみれば、さもありなん、という感じになる。

※因みに、日本三代実録とほぼ同時期に成立した類聚国史では、当神社を「美髴神」と表現している。「美髴」は、呉音では「ミホチ」と訓むと思われる(漢音では「ビフツ」)。


玄松子さんのHPから(御穂神社):http://www.genbu.net/data/suruga/miho_title.htm


写真1:「御穂神社」正面鳥居


写真2:社殿。ピンク色のスロープや階段が妙だが、本殿は静岡市指定文化財。


写真3:当神社正面に伸びる「神の道」。松並木に挟まれた道であれば、普通は参道だろうと思うが、この道の先は海しかない。要するに、神がこの道を通って、海からやって来るのである。
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