上手く表現できませんがいろいろと思う事があります。言葉足らずになる可能性があるのでワザワザここに書く必要はないのではないかという気もするのですが。自分の中で書きながら心の中を整理していけたらと思います。
人が持つエネルギー量というのは限られていると思います。無尽蔵に湧き出て来るほどのエネルギーというのはない。聖人君子でない限り何かしらの見返りを求めてしまう。人によっては名声かもしれないし、金銭的なものかもしれない。何かしらの見返りがあるから人は動けると思います。給料がもらえるから働くというのは社会人としての基本的な事だと思います。全ての活動をボランティアで行える人間はいないのではないかと。他の人に尽くすこともまずは生活基盤があってからこそ。その日の生活を送れるかどうかの人が他の人のために何かできるかというと難しい。心が狭いから、視野が狭いからこういう考え方をするのかもしれないのですが。
今、私は何のために色々とやっているのだろうと我に返る瞬間がありました。特別何かがあったというわけではなく日々の生活を送る中でそう思っただけです。あれこれとやらなければいけないことがあって持っているエネルギー自体が尽きかけている状況なのかもしれません。担任を7年連続して持っています。クラスの生徒に対してかなりの想いがあります。これは誰でもそうなのかもしれません。生徒に好かれようとか慕われようという気持ちは一切ありません。生徒に合わせる必要はないと考えていますし、合わせることで生徒にマイナスになることが多くなりますから。
同じように部活の選手に対しても想いがあります。クラスとは違った関わり方になると思いますがこちらにも大きなエネルギーを注いできました。共有する多くの時間の中で一生心の中に残る大きなものがある。これは与えられるものではなく自らが感じ取っていくものだと思います。部活の方が私の考え方が反映されるのではないかという気がしています。このblogの中に何度も書いてきています。価値観の部分ですね。
このような書き方をする。すると価値観を押し付けるなと非難される。部活はお前のやりたいようにやる所ではない。主体は子供達だと。正にその通りだと思います。実際に私がどのような関わり方を選手としているかは誰にもわかってもらえないと思います。その場にずっといて見ている人はいません。批判される部分があるかもしれませんが、本当に選手と関わったり見続けているのは私だと自負しています。「良い所」だけを見ていくわけにはいきません。
細かい指導をするというのは本当に大きなエネルギーを必要とするのです。一場面だけを捉えた批評は意味をなさない。こんなことを書くと誰かに何か言われたのか?と思われるかもしれませんが誰にも何も言われていません。思うことを書いているだけです。「やっておけ」という指導であれば誰にでもできると思います。これはほとんどエネルギーを使いません。メニューだけ与えてそれなりに練習をさせる。細かい技術や精神的な部分、日常生活の部分を全て指導していくというのは想像を絶するエネルギーが必要となります。
「見返り」を求める。これは良いことなのかどうか分かりません。私が選手に求める「見返り」とは何か?慕われるとか言うことを何でも聞くというものではありません。主従関係を求める気はありません。そんな関係は必要ありません。私が求めるもの。それは「一生懸命にやる」というシンプルなものです。一生懸命に物事に取り組む姿を見る事だけが唯一、私が選手に求める「見返り」だと思います。
この「一生懸命」というのは個人で明らかに差があります。自分ではやっているつもりであっても客観的に見てみるとそうでもないという事はたくさんあります。それを気づかせる事は大変なことです。自分はやっているのに何故自分ばかりが注意を受けるのか?という「自分はやっているのに」という気持ちが出てきます。それを何度も「違うんだ」と諭していく。それがいつの日か選手の力になってくれればいいなと。その姿を見る事ができれば全ての疲れは飛んでいきます。
練習の場面だけ一生懸命にやればいいというのではない。物事に取り組むためには様々な事を全力でやらないといけない。その場面だけをやるのは表面的な「一生懸命」でしかない。全てはつながっています。そこが分からない限りいつまでも先には進めないのです。ここを理解してもらうというのは簡単な事ではない。人は自分の弱い部分を指摘されるのを嫌うからです。人によっては完全にシャットダウンして聞き入れないというタイプもいます。それでもやっていくしかない。
今、エネルギー不足を感じるのは何故か?選手は良い子が多い。それは間違いない事実です。しかし、何が何でもやってやろうという欲か不足しています。練習を一生懸命にやれば十分だという部分があるのかもしれません。ここに物足りなさを感じているのだと思います。本当はもっと力があるのにそれを引き出すための「一生懸命」が不十分。そこができるようになるともっと大きな変化が生まれる。できる事を全てやってという部分が本当にできるようになるかどうかは大きな差なのです。
全力でものごとに取り組む姿が見たい。これが可能かどうか。全てはここなのかなと。私自身のエネルギーとなる。そう感じています。
長くなりました。ダラダラと。何が言いたいのか分からない文章かもしれません。今頭にある事を書きました。お許しを。
人が持つエネルギー量というのは限られていると思います。無尽蔵に湧き出て来るほどのエネルギーというのはない。聖人君子でない限り何かしらの見返りを求めてしまう。人によっては名声かもしれないし、金銭的なものかもしれない。何かしらの見返りがあるから人は動けると思います。給料がもらえるから働くというのは社会人としての基本的な事だと思います。全ての活動をボランティアで行える人間はいないのではないかと。他の人に尽くすこともまずは生活基盤があってからこそ。その日の生活を送れるかどうかの人が他の人のために何かできるかというと難しい。心が狭いから、視野が狭いからこういう考え方をするのかもしれないのですが。
今、私は何のために色々とやっているのだろうと我に返る瞬間がありました。特別何かがあったというわけではなく日々の生活を送る中でそう思っただけです。あれこれとやらなければいけないことがあって持っているエネルギー自体が尽きかけている状況なのかもしれません。担任を7年連続して持っています。クラスの生徒に対してかなりの想いがあります。これは誰でもそうなのかもしれません。生徒に好かれようとか慕われようという気持ちは一切ありません。生徒に合わせる必要はないと考えていますし、合わせることで生徒にマイナスになることが多くなりますから。
同じように部活の選手に対しても想いがあります。クラスとは違った関わり方になると思いますがこちらにも大きなエネルギーを注いできました。共有する多くの時間の中で一生心の中に残る大きなものがある。これは与えられるものではなく自らが感じ取っていくものだと思います。部活の方が私の考え方が反映されるのではないかという気がしています。このblogの中に何度も書いてきています。価値観の部分ですね。
このような書き方をする。すると価値観を押し付けるなと非難される。部活はお前のやりたいようにやる所ではない。主体は子供達だと。正にその通りだと思います。実際に私がどのような関わり方を選手としているかは誰にもわかってもらえないと思います。その場にずっといて見ている人はいません。批判される部分があるかもしれませんが、本当に選手と関わったり見続けているのは私だと自負しています。「良い所」だけを見ていくわけにはいきません。
細かい指導をするというのは本当に大きなエネルギーを必要とするのです。一場面だけを捉えた批評は意味をなさない。こんなことを書くと誰かに何か言われたのか?と思われるかもしれませんが誰にも何も言われていません。思うことを書いているだけです。「やっておけ」という指導であれば誰にでもできると思います。これはほとんどエネルギーを使いません。メニューだけ与えてそれなりに練習をさせる。細かい技術や精神的な部分、日常生活の部分を全て指導していくというのは想像を絶するエネルギーが必要となります。
「見返り」を求める。これは良いことなのかどうか分かりません。私が選手に求める「見返り」とは何か?慕われるとか言うことを何でも聞くというものではありません。主従関係を求める気はありません。そんな関係は必要ありません。私が求めるもの。それは「一生懸命にやる」というシンプルなものです。一生懸命に物事に取り組む姿を見る事だけが唯一、私が選手に求める「見返り」だと思います。
この「一生懸命」というのは個人で明らかに差があります。自分ではやっているつもりであっても客観的に見てみるとそうでもないという事はたくさんあります。それを気づかせる事は大変なことです。自分はやっているのに何故自分ばかりが注意を受けるのか?という「自分はやっているのに」という気持ちが出てきます。それを何度も「違うんだ」と諭していく。それがいつの日か選手の力になってくれればいいなと。その姿を見る事ができれば全ての疲れは飛んでいきます。
練習の場面だけ一生懸命にやればいいというのではない。物事に取り組むためには様々な事を全力でやらないといけない。その場面だけをやるのは表面的な「一生懸命」でしかない。全てはつながっています。そこが分からない限りいつまでも先には進めないのです。ここを理解してもらうというのは簡単な事ではない。人は自分の弱い部分を指摘されるのを嫌うからです。人によっては完全にシャットダウンして聞き入れないというタイプもいます。それでもやっていくしかない。
今、エネルギー不足を感じるのは何故か?選手は良い子が多い。それは間違いない事実です。しかし、何が何でもやってやろうという欲か不足しています。練習を一生懸命にやれば十分だという部分があるのかもしれません。ここに物足りなさを感じているのだと思います。本当はもっと力があるのにそれを引き出すための「一生懸命」が不十分。そこができるようになるともっと大きな変化が生まれる。できる事を全てやってという部分が本当にできるようになるかどうかは大きな差なのです。
全力でものごとに取り組む姿が見たい。これが可能かどうか。全てはここなのかなと。私自身のエネルギーとなる。そう感じています。
長くなりました。ダラダラと。何が言いたいのか分からない文章かもしれません。今頭にある事を書きました。お許しを。