水曜日、支部新人が実施されました。ここにたどり着くまでの1週間かなり負荷を増していました。それぞれのチームでこの大会に向けての位置付けは大きく異なると思います。周りがどうであれうちはうちのスタンスでやっていきたいと思っています。
正直、記録的なものや順位的なものに対して全く期待できないと思っていました。これで良い結果を求めるのは違うかなと。この部分は選手には言わず。分かりきっている事だと思います。それでも「今できる最高の事」をやる必要があります。股関節周辺に疲労がある。筋疲労からの回復が十分ではない。そんな事は当然です。だからといって走らないというのは違うかなと。
大会の結果は予想通り。こんなものだと思います。男子100mでは2年生Fが自己ベストを0.11更新。通常であれば考えられません。これは力的にかなり上がっているという部分だと思っています。本来の力がもっと上だから上手く走れなくてもベストが出る。女子100mではNが12秒77で走りました。この記録の意味合いはなかなかわかってもらえないと思います。この状態でこのタイムが出るというのは私の期待値を大幅に超えています。国体もあります。12秒4台は出せるレベルまで来ているのかなと思っています。焦らずやります。
この日、久々に厳しく指導する事がありました。競技結果に対してあれこれ言うつもりはありません。分かりきっている結果ですから。が、取り組みの姿勢に関しては疲労があっても関係ない。私は「試合に出れるから出る」という指導スタイルではありません。取り組みの姿勢がきちんとしていなかったり、最大限の努力や周囲に気を配るなどの当たり前の事ができないのであればやる資格はない。そこに強いとか弱いとかは関係ありません。そこがきちんと出来ていないのであれば個人もリレーも出場する資格はないと思っています。これは私自身の考え方ですから正当化するつもりはありません。
が、指導者の「信念」があるかどうかは大きいと思っています。前の記事にも書きましたが「やってもらって当たり前」でらない。人によっては力のある選手に頼み込んで競技をやってもらうという話を聞きました。私は絶対にしません。それほどやる気でもないのにこちらが頭を下げてやってもらう。そこに意味があるのか?私はないと思っています。
選手個々に合わせた指導を心がけています。しかし、それは「甘やかす」わけではない。声かけの言葉は異なりますし、頻度も関わり方も違います。そこが不平等だと言われたらそれまで。それでも「何が何でもやる」という姿勢がなければ競技をやる意味はないと思っています。何となくではダメなのです。この部分。周りからなぜそんな事にこだわるのか?と言われるでしょう。が、指導する者が「信念」を持っていなければ集団として機能する事はないと思っています。
一番の課題は「やってもらって当たり前」という部分。更には「指示がなければ動けない」というところ。これは疲労云々は関係ない。更には練習できちんとした取り組みをしていない部分があるので試合でも同じような事をする。危機感が足りないのです。この状態で勝負をするというのは難しい。
かなり声を荒げました。そこまでして指導する意味があるのかどうか。そこに関してはどう思われるのか分かりませんが。それほど大きな声を出したつもりはありませんでしたが「何があったのか?」と何人もの方に言われました。うちの保護者も心配されていたようです。申し訳ないですが「指導」です。競技の事だけをやっているわけではありません。物事に取り組むという基本的な事をやっています。「恥ずかしい」とか「周りからどう思われるか」というどうでも良い部分ではない。預かっている選手に対して責任を持ちたいと思っています。
かなり話をしましたがそれ以後の行動が微妙。更に話をしました。怒られたからやらないといけないと思うレベルであれば「やってもらわなくて結構」です。そこまでしてやってもらう必要はない。1年生に関しては「うちでやりたい」と思って来てくれたはずです。人間教育をやるという話をしてそれを受け入れてくれているはず。だからこそ私も責任を持たないといけない。当然の話だと思っています。
受身の姿勢から抜け出す。ここです。先を見越して行動できる選手にならなければいけない。今だけではなくこれから先の社会生活を送るためにも必要不可欠なのです。私のスタンスを「おかしい」という人もいるでしょう。しかし、選手と指導者は友達ではない。人間という大きな枠組みの中では「平等」だと思いますが、立場が完全に並列にならんでいるとは思いません。こちらは伝えるべき事を持っている。その「信念」がなければやる必要はない。指導する立場にもないと自分に言い聞かせています。
うーん。まとまりません。可能ならそのうち補足します。書きたい事はあるのですが言葉を選びながらになるのでなかなか難しい。
正直、記録的なものや順位的なものに対して全く期待できないと思っていました。これで良い結果を求めるのは違うかなと。この部分は選手には言わず。分かりきっている事だと思います。それでも「今できる最高の事」をやる必要があります。股関節周辺に疲労がある。筋疲労からの回復が十分ではない。そんな事は当然です。だからといって走らないというのは違うかなと。
大会の結果は予想通り。こんなものだと思います。男子100mでは2年生Fが自己ベストを0.11更新。通常であれば考えられません。これは力的にかなり上がっているという部分だと思っています。本来の力がもっと上だから上手く走れなくてもベストが出る。女子100mではNが12秒77で走りました。この記録の意味合いはなかなかわかってもらえないと思います。この状態でこのタイムが出るというのは私の期待値を大幅に超えています。国体もあります。12秒4台は出せるレベルまで来ているのかなと思っています。焦らずやります。
この日、久々に厳しく指導する事がありました。競技結果に対してあれこれ言うつもりはありません。分かりきっている結果ですから。が、取り組みの姿勢に関しては疲労があっても関係ない。私は「試合に出れるから出る」という指導スタイルではありません。取り組みの姿勢がきちんとしていなかったり、最大限の努力や周囲に気を配るなどの当たり前の事ができないのであればやる資格はない。そこに強いとか弱いとかは関係ありません。そこがきちんと出来ていないのであれば個人もリレーも出場する資格はないと思っています。これは私自身の考え方ですから正当化するつもりはありません。
が、指導者の「信念」があるかどうかは大きいと思っています。前の記事にも書きましたが「やってもらって当たり前」でらない。人によっては力のある選手に頼み込んで競技をやってもらうという話を聞きました。私は絶対にしません。それほどやる気でもないのにこちらが頭を下げてやってもらう。そこに意味があるのか?私はないと思っています。
選手個々に合わせた指導を心がけています。しかし、それは「甘やかす」わけではない。声かけの言葉は異なりますし、頻度も関わり方も違います。そこが不平等だと言われたらそれまで。それでも「何が何でもやる」という姿勢がなければ競技をやる意味はないと思っています。何となくではダメなのです。この部分。周りからなぜそんな事にこだわるのか?と言われるでしょう。が、指導する者が「信念」を持っていなければ集団として機能する事はないと思っています。
一番の課題は「やってもらって当たり前」という部分。更には「指示がなければ動けない」というところ。これは疲労云々は関係ない。更には練習できちんとした取り組みをしていない部分があるので試合でも同じような事をする。危機感が足りないのです。この状態で勝負をするというのは難しい。
かなり声を荒げました。そこまでして指導する意味があるのかどうか。そこに関してはどう思われるのか分かりませんが。それほど大きな声を出したつもりはありませんでしたが「何があったのか?」と何人もの方に言われました。うちの保護者も心配されていたようです。申し訳ないですが「指導」です。競技の事だけをやっているわけではありません。物事に取り組むという基本的な事をやっています。「恥ずかしい」とか「周りからどう思われるか」というどうでも良い部分ではない。預かっている選手に対して責任を持ちたいと思っています。
かなり話をしましたがそれ以後の行動が微妙。更に話をしました。怒られたからやらないといけないと思うレベルであれば「やってもらわなくて結構」です。そこまでしてやってもらう必要はない。1年生に関しては「うちでやりたい」と思って来てくれたはずです。人間教育をやるという話をしてそれを受け入れてくれているはず。だからこそ私も責任を持たないといけない。当然の話だと思っています。
受身の姿勢から抜け出す。ここです。先を見越して行動できる選手にならなければいけない。今だけではなくこれから先の社会生活を送るためにも必要不可欠なのです。私のスタンスを「おかしい」という人もいるでしょう。しかし、選手と指導者は友達ではない。人間という大きな枠組みの中では「平等」だと思いますが、立場が完全に並列にならんでいるとは思いません。こちらは伝えるべき事を持っている。その「信念」がなければやる必要はない。指導する立場にもないと自分に言い聞かせています。
うーん。まとまりません。可能ならそのうち補足します。書きたい事はあるのですが言葉を選びながらになるのでなかなか難しい。