kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

いろいろな意見

2018-11-01 | 陸上競技
思うことを。

それぞれの立場から何を考えるか。そこは難しいと思う。矢面に立つ人もいれば、そこに対して不満を掲げる人もいる。誰かがやらなければ物事は進まない。ではその「誰か」に誰がなるのか。一つの物事を見ていて「良い」という意見もあれば「悪い」という意見もある。一側面からの意見だけになれば世の中は怖いことになる。独善的な人間になればそれさえも跳ね返すのかもしれないが。

戦場を状況を社会に伝えるのが必要だという考え方。少し前にニュースで取り上げられたがジャーナリストの方が3年近く武装集団に監禁されていて、解放されるために3億円近くのお金が支払われた。人の命はお金に換えられるものではない。1人の命が救われたことには本当に貴重なことだと思う。その半面、その命を救うために支払われた3億円により武装集団は新たな武器を手に入れる。それにより多くの命が失われることになる。1人の命を救うためのお金が複数の命を奪う原因となる。

どちらが正しいのか。それは分からない。個人的な感情だけでは答えは出せない。家族からすれば身内の命が救われることは何物にも代えられない。が、同時に他者の命が奪われ更に多くの人が悲しみに包まれる。それぞれの「立場」からの意見はある意味正しい。「自分の視点」から見たときに「正しい」のだから。世論とは全く別の感情が存在するのは当然の話だと思う。

どの側面からの意見なのか。ここは大きい。人はやはり「自分の立ち位置」で話をする。現場で働く者は「自分たちの働きやすさ」を求めるし、上に立つ者は「どうすれば多くの人に利益があるか」を考える。この部分は相反することだって当然生まれる。「世界平和を望む」というのは誰も同じ方向の意見かもしれない。が、人は目の前の自分の幸福を求めようとする。それにより「意見の対立」は必ず生まれる。

ここは絶対に埋まらない溝だと思う。ハロウィンでバカ騒ぎをする。本人たちはその場でワイワイやっていることが楽しい。そこから何かが生み出されるかどうかは別問題。「楽しい」からやっている。その「楽しさ」が他者を不快にさせていたり、多くの人間に迷惑をかけているという感覚は薄いのだと思う。軽トラをひっくり返ずという愚行は許されるものではない。「自分さえ楽しければ」という度が過ぎる。

今回、軽トラがひっくり返された時。「自分でその場に行ったのだから仕方ない」というようなコメントもあった。戦場に行って拉致されたジャーナリストと重なるのかもしれない。軽トラの運転手が「車で行って自分も盛り上がる」と考えて行ったのであれば仕方ないという考え方なのかも。道に迷って入り込んだという情報もあったのでどれが事実なのかはわからない。自分で軽トラで行ったとしても「自己責任」といわれる話ではない。なぜなら「人の所有物を破壊する」というのは「権利」ではないから。

身代金の話も同様。一番悪いのは「武装集団」だと思う。その集団が他者を攻撃するからこのようなトラブルが起きる。その集団が行っている行動を「正しい」と思い込まなければ他者を拉致してお金を手に入れようという行為は生まれない。これも「理想論」でしかないが。自分が正しいと独善的に考えるからこのような状況が生まれる。

何が正しいのか。ある人にとって「善」であってもある人にとっては「悪」になる。見ている視点からそれは180度変わる。「視野を広く持つ」というのはいつも言われることだが実際は難しい。それぞれの価値観があってどのようなフィルターを通して物事を見るかによって受け止め方も変わるから。戦争が生まれる要因は完全にここ。それぞれの意見が食い違うから生まれる。

書いている内容に「正解」は存在しない。哲学的な話になる。自分でも何を書きたかったのかよくわからなくなる。それでも「想うこと」を記しておきたいと強く思った。陸上競技の話とは少し異なる。それでも書いておこうと思ったので・・・。楽しくはない内容ですね。すみません。
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客観的に見て

2018-11-01 | 陸上競技
思うことを。

こういう性格ですから協調性はそれほどでもないと思っています。「本当に必要かどうか」で行動する部分が多い。わがままを言う部分もたくさんあります。「強豪校の監督は協調性がない」といわれることもあります。これと私の行動はかなり違うと思う気はしていますが。モチベーションの部分だったりとか。

「理想論」と「実際にできること」は大きく違うと思います。何かをやろうと思えば人は「理想論」を掲げる。もちろんその方向で物事が進めばいいと思いますが、実際はそうはいかない。自分自身の行動が「理想論」の部分と矛盾するというのが一番しんどいなと思います。簡単ではない。

心が狭いので「他校の選手を指導する」ことに関していろいろと思うことがあります。その話をするとよく怒られるのですが・・・。いつもお世話になっている指導者のところの選手であればやはりこちらも最善を尽くす必要があると思っています。そうでない場合は・・・。やはり心が狭い・・・。

私は陸上競技が大好きだと思っています。それは「指導すること」が好きなのか「競技について考えること」が好きなのか自分でもわかりません。指導をしていて技術的な変化があるというのは面白い。それは強い選手であってもまだ始めたばかりの選手であっても同様だと感じています。何かしらできないかという感覚は常にある。

しかし、それは「誰に対しても与える無償の愛」とは違う気がしています。どのような状況の選手であっても「最大限のことをしてあげよう」という人間であればいいと思うのですが、私自身は違うと思っています。やはり最優先は「自分のところの選手」です。比較する話ではないかもしれませんが。一人の人間として「誰にでも」という優しさというか大らかさがあると違うのかもしれません。今の私には無理だなと思います。

選抜合宿などで指導をする。貴重な経験です。その場で指導したいと思ってもできない指導者もいる。専門性が高い種目になればなるほど指導の必要性は大きくなる。別に私自身は「指導がしたくてたまらない」という人間ではないと思っています。周りはどう思っているのかわかりませんが。ハードルの動きなどは「跳んでおけばいい」という選手もいればきちんとやらなければできないという選手もいる。「ハードルドリル」は見よう見まねでやってもあまり効果はないかなと思っています。これは早い段階で身に着けてもらいたい部分ではあるのですが。癖付くと修正が難しくなるので。

そうれであれば選抜合宿などで教えていくことが必要かもしれない。国体の関係でこういう場面で指導した選手が実際に活躍するというのはこれまでの流れでした。必要な部分があると思って行っていました。国体の直前で技術指導をしたところでどうにかなるのかという部分もあるため、早い段階でやっておくといいかなと思います。今の2年生の400mH選手には定期的に技術的な部分や戦術的な話をさせてもらえるでありがたいなと思っています。

数日間教えることでどうなるのか。本来であれば「指導者育成」が一番手っ取り早い。私が指導を始めたころは「何とかして指導できるようになりたい」と寝ても覚めても競技のことを考えていました。更に図々しくあちこちに出向きました。電話でひたすら質問するというのもありました。迷惑を顧みずという感じでしたが・・・。私自身は自分が欲していたのでそれをやっただけ。誰かから強要されるものではないと思います。

客観的に見て。そういう部分が不足する人もいるのかなと。批判的な感じになりますが。そうであればそこに対して我々がアプローチする必要性があるのか。選手に対しても「必要であれば自ら聞く」ことを求める。指導者に関しても同様ではないか。偉そうな話になっているかも。親切な人であれば「自ら関わっていって教える」というのをするのかもしれません。が、それは「余計なお世話」かもしれない。私の「学びたい」という感覚と他者の「学びたい」とう感覚にはやはり「差」がある。

自分自身が「変わっている」と思う部分はあります。この感覚を他者に求めるのはやはり違うのかもしれない。強くなりたいと望む選手がいるのであれば指導者が学ばなければいけない。環境を整える必要がある。これまでの経験論だけで物事が順調に進むことはないと思っています。様々なことを考えながら取り組んでいくことで初めてわかる部分がある。

「熱量」の話になりますが。自分と同じ「熱量」を他者に求めるのは違うかなともうようになりました。求めてはいませんが。本当に何かをやろうと思えば・・・。もったいないなと思う。それは私が勝手に思っているだけ。強要するものではない。

まとまりません。いつものことです。何が書きたいのか。分かりません・・・。
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