時間を作って本を読んだ。
前も少し書いたが稲盛和夫氏の本。この中で「感謝」について触れてあった。自分が生かされていて、全ては自分だけの力ではない。大きな力が働いているからだと。多くの人に支えられているから今がある。そのことに対して感謝の気持ちを忘れない。云々が書いてあった。
その話を読んでいて勝手に20年前を思い出した。全然重ならない話。全日本インカレの標準記録を突破して人生で初めて東京に行くことに。田舎者が。その出発の前に大学の監督さんと話をする機会があった。1998年だったと思う。多くの人に支えられていたからここまで来れた。スタート地点に立つ時に多くの人に感謝の気持ちを持て、という話をされた。当時、私は本当にスタート地点に立った時に「みんなありがとう」と自分の手を胸に当てて思った。そこでの行為自体は紛れもない事実。
が、今になって本読んで思い直してみるとその時の「感謝」は心からのものではなかった気がする。「感謝の気持ちを持て」と言われたからそう思っただけに過ぎない。心から支えてくれた人たちに感謝していたのか。20年経過して改めて気づかされた。ひょっとしたらその時の想いを読まれていて「感謝しろ」と諭されたのではないかと思う。恥ずかしい話だと感じた。
当時の私は「自分の努力によってここまできたんだ」という自負があった。誰からも指導を受けず、自らが思うかままに練習をしていた。遠回りをしたけど全国の舞台に立てた。その事を誇らしく思っていた部分は間違いなくあったと思う。心の中にその想いがあった。それは間違いない。高校時代、大きな活躍ができなかった私がそこまできたのは努力の積み重ねがあったから。そう思い込んでいた。高飛車な学生だったに違いない。
それが本を読んでいてガツンと頭を殴られたような感覚になった。「自分が自分が」という感じがあったのではないか。20年前とはいえ恥じるべき考え方だったのではないか。若かったといえばそれまで。しかし、「他者に感謝して生きる」事ができていたのか。「利己的」ではなく「利他的」に生きる事で初めて道が拓けるという考え方に触れてなんだか自分が情けなくなった。松下幸之助然り。経営者の言葉に触れる事で今の自分の存在の大きさや考え方について考えさせられた。
が、信頼している人によってこの話をした。情けない話なので公にblogに書くのも恥ずかしいと思っていたのだが、話をしておきたいと思った部分があって心の底にある部分を打ち明けた。恥を隠さず。その返答は「自分の力でやってきたという感覚があるのであればそれはそれで良い」というものだった。こちらは頭を殴られたという感覚よりも車で轢かれたくらいの衝撃。え???と。
経営者の本をや一般的に受け入れられる本。これは「人としてどうあるべきか」と書かれている。ブッタの言葉には「欲しがることの業」に触れてあった。人は欲しがる事でカルマを背負う。与える事ができない。欲しがる事では欲望でありそれは人をダメにするのだ、と。今回は「自分を犠牲にしてでも他者に尽くす」という美徳が書かれていた。「お金を稼ぎたい」という「利己的」な欲求を持っているよりも「他人のために尽くす」という「利他的」な人間の方が上手くいくのだ、と。
私自身、好んでこの手の本を読んできた。哲学の本であったり経営者の思想を学ぶ事で自分自身の生き方を考える事ができるのではないか、と。かま、話をしていて「儲けたいと思う事は普通の感覚ではないか?」と言われた。日本人の美徳は「儲けるというのは卑しい」と捉えられる。士農工商という身分制度のを見てもそれは分かる。他者にモノを販売して自分が利することを「卑しい」とされていた。そういう風土だから「自分の利益を追求する」というのは「悪」だとされてきた。でも、そういう感覚で生きることで結果的に他者にプラスの影響を及ぼすこともあるのではないかというノンストップの車に轢かれた。吹っ飛ばされた感覚、衝撃を通り越して涙が出た。自分自身が小さな小さな「殻」の中で物事を考えていたのだと思い知らされた。
少し前に心から慕っている尊敬する方に「今の考え方だったら生き辛いだろう」と言われた事があった。この時も涙が出たのだが、自分でどうしたらいいのかまったく分からなかった。こういう性格なので「こうありたい」とか「こうでなければいけない」という感覚が自分の中に強くて大きくある。そこからはみ出してしまう事が自分の中で許せない。だから「生き辛い」のだと思う。多くの場面でストレスを感じてしまう。
本を読んで「自分の生き方」や「自分の考え方」の小ささを突き付けられていた感覚があった。が、「いーじゃん、別に」という言葉をもらって心が折れすごく軽くなった。自分自身に無いものを持っている人に惹かれる。それは大きな事だと思う。小さな殻の中で生きている私にとってはそのことは大きい。生き辛いと言われてそれを受け入れるしかない自分自身がいた。
「別に自分が儲けてもいいじゃないか」という言葉。「こうあるべきだ」と思って生きていた私に不足すること考え方。涙が出た。よく考えると本を読むという時に無意識に自分が好む本を読むようになっていた。本屋で選択する本は「人として正しく生きる」というような本が中心になる。それは無意識に「不自由な選択」をしていたのではないか。自分の意思で選んでいるつもりであっても気がつけば「こうあるべきだ」という概念の中でその本を選ばざるをえなかったのではないか。
こうやって思わせてもらえる方々がいる。それに関して心から感謝している。自分一人ではそのことは分からない。20年前の感謝と今の感謝は同じ「感謝」という言葉を使っているが本質的に全く異なる。私が肌で感じて心からそう思って湧き出る感謝。これが本物なんだと思う。誰から「感謝しなければ」と言われてするのとはまったく違う。当時も感謝はしていた。しかし、今の感情や感覚とは全く違う。表現はできないが。
もう一度自分自身を見つめ直したい。私がこんなに生き辛いと感じているのであれば、わたしの関わる多くの選手は「生き辛い」と感じるのかもしれない。変わるべきは私自身ではないか。まーこう考える事が「殻の中で生きる」という話になるのかもしれないが。
まとまらない。それでもこのことに関しては絶対に記しておきたい。思っている感情の全てを書くのは難しい。それでも今までの「kaneko」という小さな世界の中から抜け出せるキッカケはあると思う。見つめ直したい。
硬いですね。お許しを。だから、「生き辛い」だろうって言われるのだと分かってはいるのですが。心の底からありがとうと思う。それ以上でもそれ以下でもない。感謝という言葉では示せない。しっかりと考えて生きたい。硬い(笑)。
前も少し書いたが稲盛和夫氏の本。この中で「感謝」について触れてあった。自分が生かされていて、全ては自分だけの力ではない。大きな力が働いているからだと。多くの人に支えられているから今がある。そのことに対して感謝の気持ちを忘れない。云々が書いてあった。
その話を読んでいて勝手に20年前を思い出した。全然重ならない話。全日本インカレの標準記録を突破して人生で初めて東京に行くことに。田舎者が。その出発の前に大学の監督さんと話をする機会があった。1998年だったと思う。多くの人に支えられていたからここまで来れた。スタート地点に立つ時に多くの人に感謝の気持ちを持て、という話をされた。当時、私は本当にスタート地点に立った時に「みんなありがとう」と自分の手を胸に当てて思った。そこでの行為自体は紛れもない事実。
が、今になって本読んで思い直してみるとその時の「感謝」は心からのものではなかった気がする。「感謝の気持ちを持て」と言われたからそう思っただけに過ぎない。心から支えてくれた人たちに感謝していたのか。20年経過して改めて気づかされた。ひょっとしたらその時の想いを読まれていて「感謝しろ」と諭されたのではないかと思う。恥ずかしい話だと感じた。
当時の私は「自分の努力によってここまできたんだ」という自負があった。誰からも指導を受けず、自らが思うかままに練習をしていた。遠回りをしたけど全国の舞台に立てた。その事を誇らしく思っていた部分は間違いなくあったと思う。心の中にその想いがあった。それは間違いない。高校時代、大きな活躍ができなかった私がそこまできたのは努力の積み重ねがあったから。そう思い込んでいた。高飛車な学生だったに違いない。
それが本を読んでいてガツンと頭を殴られたような感覚になった。「自分が自分が」という感じがあったのではないか。20年前とはいえ恥じるべき考え方だったのではないか。若かったといえばそれまで。しかし、「他者に感謝して生きる」事ができていたのか。「利己的」ではなく「利他的」に生きる事で初めて道が拓けるという考え方に触れてなんだか自分が情けなくなった。松下幸之助然り。経営者の言葉に触れる事で今の自分の存在の大きさや考え方について考えさせられた。
が、信頼している人によってこの話をした。情けない話なので公にblogに書くのも恥ずかしいと思っていたのだが、話をしておきたいと思った部分があって心の底にある部分を打ち明けた。恥を隠さず。その返答は「自分の力でやってきたという感覚があるのであればそれはそれで良い」というものだった。こちらは頭を殴られたという感覚よりも車で轢かれたくらいの衝撃。え???と。
経営者の本をや一般的に受け入れられる本。これは「人としてどうあるべきか」と書かれている。ブッタの言葉には「欲しがることの業」に触れてあった。人は欲しがる事でカルマを背負う。与える事ができない。欲しがる事では欲望でありそれは人をダメにするのだ、と。今回は「自分を犠牲にしてでも他者に尽くす」という美徳が書かれていた。「お金を稼ぎたい」という「利己的」な欲求を持っているよりも「他人のために尽くす」という「利他的」な人間の方が上手くいくのだ、と。
私自身、好んでこの手の本を読んできた。哲学の本であったり経営者の思想を学ぶ事で自分自身の生き方を考える事ができるのではないか、と。かま、話をしていて「儲けたいと思う事は普通の感覚ではないか?」と言われた。日本人の美徳は「儲けるというのは卑しい」と捉えられる。士農工商という身分制度のを見てもそれは分かる。他者にモノを販売して自分が利することを「卑しい」とされていた。そういう風土だから「自分の利益を追求する」というのは「悪」だとされてきた。でも、そういう感覚で生きることで結果的に他者にプラスの影響を及ぼすこともあるのではないかというノンストップの車に轢かれた。吹っ飛ばされた感覚、衝撃を通り越して涙が出た。自分自身が小さな小さな「殻」の中で物事を考えていたのだと思い知らされた。
少し前に心から慕っている尊敬する方に「今の考え方だったら生き辛いだろう」と言われた事があった。この時も涙が出たのだが、自分でどうしたらいいのかまったく分からなかった。こういう性格なので「こうありたい」とか「こうでなければいけない」という感覚が自分の中に強くて大きくある。そこからはみ出してしまう事が自分の中で許せない。だから「生き辛い」のだと思う。多くの場面でストレスを感じてしまう。
本を読んで「自分の生き方」や「自分の考え方」の小ささを突き付けられていた感覚があった。が、「いーじゃん、別に」という言葉をもらって心が折れすごく軽くなった。自分自身に無いものを持っている人に惹かれる。それは大きな事だと思う。小さな殻の中で生きている私にとってはそのことは大きい。生き辛いと言われてそれを受け入れるしかない自分自身がいた。
「別に自分が儲けてもいいじゃないか」という言葉。「こうあるべきだ」と思って生きていた私に不足すること考え方。涙が出た。よく考えると本を読むという時に無意識に自分が好む本を読むようになっていた。本屋で選択する本は「人として正しく生きる」というような本が中心になる。それは無意識に「不自由な選択」をしていたのではないか。自分の意思で選んでいるつもりであっても気がつけば「こうあるべきだ」という概念の中でその本を選ばざるをえなかったのではないか。
こうやって思わせてもらえる方々がいる。それに関して心から感謝している。自分一人ではそのことは分からない。20年前の感謝と今の感謝は同じ「感謝」という言葉を使っているが本質的に全く異なる。私が肌で感じて心からそう思って湧き出る感謝。これが本物なんだと思う。誰から「感謝しなければ」と言われてするのとはまったく違う。当時も感謝はしていた。しかし、今の感情や感覚とは全く違う。表現はできないが。
もう一度自分自身を見つめ直したい。私がこんなに生き辛いと感じているのであれば、わたしの関わる多くの選手は「生き辛い」と感じるのかもしれない。変わるべきは私自身ではないか。まーこう考える事が「殻の中で生きる」という話になるのかもしれないが。
まとまらない。それでもこのことに関しては絶対に記しておきたい。思っている感情の全てを書くのは難しい。それでも今までの「kaneko」という小さな世界の中から抜け出せるキッカケはあると思う。見つめ直したい。
硬いですね。お許しを。だから、「生き辛い」だろうって言われるのだと分かってはいるのですが。心の底からありがとうと思う。それ以上でもそれ以下でもない。感謝という言葉では示せない。しっかりと考えて生きたい。硬い(笑)。