kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

悲壮感はいらない

2021-02-07 | 陸上競技

金曜日。他の人の力を借りながら。私の言葉がきちんと届かないのであれば他の人に話をしてもらうことも必要。迷惑をかけることになるのは分かっているが。それでも「同じことの繰り返し」をどこまで続けていくのか。その場限りの話をどれだけしても意味がない。個別に話すことも必要になる。それでも結局は「何が大切なのか」が分からなければ「繰り返される」ことになる。強い無力感も感じながら。

 

この日は40分授業の5時間。そのあと大掃除。推薦入試のために学校全体を掃除します。その後、生徒は校舎内立ち入り禁止。コロナの関係もあり消毒も必要になります。72時間以上経過するとウイルスが死滅するという話なので土曜日、日曜日、月曜日と3日間校舎内に基本生徒が入れなくなります。「万が一のことがあったら」という判断だと思います。活動はしにくい。難しい話ですね。

 

練習に関してはある程度時間の確保ができるのでそれなりに。本当にどこまでやるのかという感じがあります。怒られるから練習をするというのは違うと思います。誰のためにやるのか。何を目指してやるのか。ここが大きな部分。本当は練習開始時に話をしようと思っていたのですが別の業務があるので自分たちで始めさせました。

 

バランス系、上半身下半身、DM∞、ハードル股関節。走る練習が増えてくるとどうしても補強が減ってしまいます。この両立をしたい。が、バランスが非常に難しい。走練習をしっかりやろうと思えば時間が足りなくなる。ここを見極めていく必要がある。この日は加速段階の練習をメインに据えていたので加速段階T走をやってから加速ドリル。私がグランドに着いたときにはここをやっていました。

 

スタブロからの出。腰が進みません。DM投げをやっているのですがスタンディングからの動きには少しずつ変化が見えてもスタブロからの出はまだまだ変わりません。もちろん簡単にできるとは思っていませんが、もう少しつながりが生まれないといけない。少し時間をかけてDM投げとスタブロからの数歩をやりました。ブロックが押せない。膝の引き出しだけでは進めません。この部分をどのように身につけていくか。難しい。

 

ある程度やってからバトン走。表情が曇っている選手もいます。これではいい練習にはなりません。気持ちを切り替えるということも重要。が、そこが簡単にできない。「練習をしなければいけない」というような表現をしていました。残りの時間を考えたら「やらなければいけない」と感じるようです。これは良くないなと思っていました。

 

シャフト補強を終えて最後に話をしました。「感謝する」という話をする者が何人かいます。が、それは「他者から強制される」ものではない。謝ることに関しても感謝することに関しても喜ぶことに関しても「やりなさい」と言われてやるのでは「本当の意味」は発生しない。

 

何か問題が発生する。この時に誰が一番被害者になるか。「一生懸命にやりたい」と思っている者です。そのことを感じ取れるかどうか。怒られたから、注意をされたから落ち込む。涙を流す。別にそこから何かを生み出すのであればそれでいいですが。雰囲気で涙を流したり、過呼吸になるのは避けるべきだと思っています。そこから何かを生み出すことはないからです。悲壮感が漂う練習は効果はない。

 

前任校の話を少ししました。全員でマイルでインターハイにいくことを最大目標にしていた。その時の練習は今でも想像を絶するレベルでした。必死。でもその中で「自分が強くならなければインターハイにいけない」というのを何度も何度も口にする雰囲気がありました。そのときはその雰囲気に私自身が酔っている感じがあったと思います。実際は「悲壮感」がチーム全体を覆っていた。「前向きに強くなる」というのではなく「自分が強くならないといけない」と義務のようになっていた。これではいい練習にはなりません。

 

前の記事にも書きましたが、「やりたくないならやらなければいい」のです。「強くならなければいけない」という義務感でやるのではない。「強くなりたい」と思って取り組めるか。そこの部分は大きいかなと思っています。同じ練習をするのでも「嫌だけど走らなければいけない」と思うのか「これをやったら強くなれる」と思ってやるのか。

 

雨が降ったら練習が休みになる。これで喜ぶ部活動もあります。私からすれば「練習ができなくなった」と残念がるくらいの「想い」が必要だと思っています。「練習がしたい」と思っているのか。「嫌だけどやっている」のかの違い。やりたくないのならやっても意味がない。「やりたくないな」と思ってグランドに立っている者がいれば「本気でやりたい」と思っている選手の足を引っ張ることになる。自分たちの行動をしっかりとみなおしてみること。ここが重要だと思っています。

 

「やらなければいけない」という考え方を捨ててもらいたい。速く走れると「楽しい」から走るのです。原点はそこにある。もちろん、速くなるためには避けて通れない部分もあります。面白おかしい「楽しい」ではなく、日々変わっていく自分自身を「楽しい」と思えるかどうかです。

 

悲壮感はいらない。泣きながら練習するくらいならやらないほうがいい。もっと前向きに物事と向き合いたい。そう思います。

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誰のためにやるのか

2021-02-07 | 陸上競技

木曜日。この日は一切練習に関わらず。本当に「意味があるのか」を考えていました。自分自身の中で消化しきれない部分があります。感情的になる気はありません。前時代的な指導をするつもりもない。

 

人にはそれぞれ「言い分」がある。それは「自分の立場から見た正しさ」でしかないことがある。都合の良いように考えるとすべては「正しい」ことになる。が、それが客観的に見れるかどうかは重要。

 

私は「感謝」されるために部活動をやるつもりはない。恩着せがましくやることに意味はない。が、「やってもらって当たり前」という感覚は全く持って違うと思う。こういう感覚の中で生活をすると「やってもらえない」ことに対しての不満が出る。「自分自身がどうするか」という感覚の中で生活ができるか。

 

良くある話。何かを指摘すると「~君もやっていない」という返答。自分自身の問題と向き合わずに「他の原因を挙げる」ことになる。反省したり改善するのは自分自身だが「問題点」に目を向けず「正当化」することがある。これではほとんど成長はない。結局、自分の非を認めて次に何をするべきかを考えないから。

 

最近特に思う。「やりたくないならやらなければいい」ということ。部活動やスポーツは他の誰かから強制されてやるものではない。やりたくなければやらなければいいだけの話。集団に所属するのであれば「一定のルール」が存在する。そこを度外視して「権利」だけを主張するのは違う。それぞれの集団において約束事があると思う。その「約束事」を守れないのであればななかなか集団活動はできない。

 

「個性を尊重する」という話。集団の中で「個性」を大事にする。当然必要なこと。が、その「個性」を尊重することによって他の「個性」が発揮できなくなることがある。「きちんとやりたい」という想いを持っている人間がいる。が、「適当にやりたい」と思う人間もいる。その「適当にやりたい」という意見を尊重することによって「きちんとやりたい」という個性は埋もれてしまう。何を優先するのかは大切なことだと思う。

 

教育として。「きちんとやっている人間を正当に評価する」必要がある。ここに対しては考え方は変わらない。これに対して否定的な意見もあるだろう。それぞれの立場からそれぞれのことを言う。これも当たり前なのかもしれない。

 

強くなる選手と強くなれない選手。大きな差がある。ここをどう感じ取るか。一生懸命にやったら確実に強くなるというわけではない。努力の方向が違えば結果にはつながらない。「考え方」というのは様々な場面ででてくる。グランドの上だけきちんとやればいいというものではない。時間を守ることであったり、指導を受けて不貞腐れたりしないというのは必要条件だと思う。それができなければ結局、学ぶものはない。

 

思うことはある。全ては書かない。が、本当の意味で「活動する」とか「成長する」というのはどういうことなのか。支えあう中でしかできないことがある。「自分のことだけを考える」ような生活をしていたら世の中はどうなってしまうのか。考えさせられる。

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何を目指すのか

2021-02-07 | 陸上競技

思うことを。

 

こうやってblogを書いている。ここに関しては様々な考え方があると思う。まーそれはそれでいいんだと思う。別に何かを強制されるわけでもない。ノイジーマイノリティ。サイレントマジョリティ。それぞれが存在する。「自粛警察」のように「自分が正義」だと信じ切っている場合、周りが何を言っても意味がなくなる。元々聞く気がないのだから。「正しい」と盲信しているのだからそこに届くことは少ない。仕方ない。

 

色々な場面で「部活動」に対しての批判がある。こうなれば社会体育として存在するほうがいいだろうと思う。批判の中には「教員が授業だけに集中できるように」という意見もある。うがった捉え方をすれば「勉強さえ教えておけばそれでいい」という感じになるのだろうか。

 

そうなると「塾」と大差ない。別に勉強さえすればそれでいいじゃないか。自分がやりたいようにやればそれでいいじゃないか。それも一理あるのだと思う。別にそれはそれでいいと思うが。部活動自体が「悪」だという表現も見る。本当にそうなのか。分からない。

 

私自身は別に「部活動」にとらわれる必要はないと思っている。「部活に入っていると進路に有利」というのも以前はあったのかもしれないが、実際はどうなんだろうか。結局は「何を学んだか」ではないか。

 

「勉強」をしっかりやる。暗記型の授業展開からの脱却は必要になると思う。今の時代、本当に調べたかったらスマホで調べたほうが圧倒的に早い。モノを覚えるということに対してのハードルは著しく低くなっていると思う。コミュニケーション能力云々という話も出るがそれは「座学」だけでは身に付かない。「思考判断」という要素を数値で測るのは難しいのではないか。「文章を読み解く」ことと「実践的に活動できる」ことは全く別物だと思う。

 

商業の授業で「電子商取引」という科目がある。これを導入しようとしたときにはまだインフラ整備も不十分だった。それが「最先端」という感じで導入を考えたのかもしれない。が、実際教科書ができて授業をするという段階になると「遅れている」という感じになる。こういう部分は日進月歩。文字にして示している間にそれは「遅れ」になる。そこを考えると本当に何を教えるのか、伝えるのかは考えるべきだと思う。

 

「教科教育」みたいなことがあれこれ言われる。その教科を使って何を考えるか。そちらのほうが大切だと思う。コロナの影響で「学校行事」が極端に減っている。それでも時間は過ぎていく。問題はないのかもしれない。が、「実際に活動する」ことでしか分からないこともある。リーダーとなって計画を立てていくことや周囲とコミュニケーションを取りながら物事を組み立てていく。先を見越した行動や他者への配慮。こういう部分は「座学」だけでは身に付かない。

 

あらかじめこちらが準備をしておいてそれに乗っかるだけで「学校行事」をするのは好きではない。「生徒がやっている」という感じに見えるが台本と流れをこちら側が準備しているので生徒は考えて何かをすることが極端に減る。それなら失敗してもいいかきちんとやってみるほうがいい。去年よりも今年、今年よりも来年のほうが良くなる。それが理想だが実際は生徒は入れ替わるのでそう上手くはいかない。それを経験することも「勉強」なのだと思う。

 

部活動批判は出る。それはそれで仕方ないと思う。が、「競技だけ」を求めるつもりはない。それ以外にもっともっと大切なことがある。それが分かるようになるかどうか。与えられることは「当たり前」ではない。全てが自分の思い通りになることもない。「努力」をすれば必ず結果が出るという理想論は世の中にあるが、実際は違う。その部分も経験する必要がある。

 

教科の勉強をする。これも学校の持つ意義の1つだと思う。しかし、それだけがメインになることが本当に正しいのか。そこで一番力を発揮する人もいるだろう。が、その人も塾の先生のように「受験対策」に特化しているかどうか。それぞれに「求められること」と「必要なこと」がある。「PCを使っての最新の授業」は持てはやされる。もちろん、時代に応じて必要になるだろう。が、それが「主」ではない部分もある。実際に手を動かしたり苦労しながらやっていかないとできないこともある。

 

世の中は「バランス」だと思う。人はどちらか一方に振れやすい。片方が正しくて片方が間違っているという考えかたになりやすい。実際は「どちらも利点がある」と思う。それを度外視し続けていたら結局、どちらかが疎かになる。「善」と「悪」はそれぞれの「見方」次第。ある人にとっては「正しい」ことがある人にとっては「間違っている」ととらえられる。だから振れ幅が大きくなる。

 

部活動。本当に不要なのか。ここは考えていきたい。人それぞれ考え方はある。良い面も悪い面もある。それだけは忘れたくない。

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