すごく書きたいことがあって。それでも自分自身の時間がなくて。自分の考え方や想いを示すためにこのblogを書いてきたつもりですが、それができないというのはなかなかの苦痛で。
ニュースなどで「イチロー氏」の発言が取り上げられていました。
ニュースなどで「イチロー氏」の発言が取り上げられていました。
まさにここの部分が重要だと思っています。今は「仲良く」やることが求められています。県内の競技会を見ても「練習を積んでいない」状態でも平気で試合に出てくる。それが間違いなく県全体のレベルの低下につながっていると思っています。しかしながらそれが「今の時代」なのかなと。別にそこまでして「競技」をしなくてもいいんです。「スポーツ」だから。勝つとか負けるとかではなく「試合に出る」ことで十分な目的は果たせている。
イチロー氏が挙げていますが以前であれば「一定水準」までは指導者が引き上げることができていたと思います。「頑張り方」を知らない選手に対して「引っ張っていく」というスタイルで選手を強くすることができた。本人が望むか望まないかを別として「部活動」はそのような場面でした。厳しいことも言われる。言われないほうが楽。言われたくないからその場を去るというという選手も多かったのかもしれません。
が、基本的なことができないと最終的に困るのは自分自身です。記事にも書いてありますが「自主的に」という理想論の中で「誰も責任を取らない」という状況が生まれます。最終的に「自分の好き勝手にやる」ことがまかり通る世の中になる。誰からも何も言われないのだから「好きにやる」ことができる。それが間違っていたとしても「聞かない」のだから気づくこともない。最終的に「評価」されることも気づかない。それでも世の中なの風潮は「自主性」や「自己責任」という話が出てくる。
「自主性」を重んじるといっても自分自身がどのように行動すればいいのかを知る機会は必要だと思っています。常識を逸脱している行動に対して「間違っている」ということさえ今では少なくなっているのかもしれません。今の状況であれば「分からない」中でも「自分で自分をコントロール」してやっていく必要が出てきます。
今は「ウエイトコントロール」に関してほとんど何も言わないようにしています。無理矢理何かをさせたといわれて自分自身が損をする可能性が高いからです。今回の記事にもありましたが「そもそも教える側にはメリットはほとんどないのに、教える相手の尊厳や心理的安全性まで慮ってまるで「お客様」のように遇しなければならないというのは、こう言ってはなんだがさすがに面倒くさい。」という部分。まさにそうだと思います。「結果」を出したところで給料が増えるわけではない。どちらかというと「リスク」のほうが大きい。それなのに「指導」という大きなリスクを背負って何かをするというのは「無謀」だと思っています。
「頑張れない」と言われたら「頑張れるようになるまで休めばいい」と伝えるようにしています。背中を押すというのが必要なのかもしれませんが。もちろん、きちんとやることに対しての「可能性」については伝えます。それでも「気持ちが」と言われたらそれ以上のことは「無理強いしない」ようにしたいなと思っています。近隣の自動車学校のことがネットニュースになっていました。「ほめちぎる教習所」として「ほめて伸ばす」というのがコンセプトだと。今の若者にはそれが必要なのかもしれません。
ちょっと前。あまりにも行動が目に余る生徒に対して話をしました。別に話をする必要性はないのですが。遅刻する。時間を守らない。連絡なしに休む。小学生でもやらないようないたずら(?)をする。誰が楽しいのか分からない。そんな状態で何を求めるのか。高校は義務教育ではありません。別に「来たくない」と思うなら来なければいいと思っています。勝手に帰宅するというのはなくなりましたが、それでも「常識」ではない部分。こういうのをblogに書いたら炎上するのかもしれませんね。「出席日数も足りるしもう良いんじゃないか」と伝えました。無責任だと言われますか?教員が「もういいんじゃないか」と話すことはダメでしょうか。きちんとやっている生徒もいます。が、「好き勝手にする」という生徒がいるのも現実です。これは「日本全国」での問題だと思っています。「怒られる」ことがあればそれは「怒るほうが悪い」というのが主流になっていますから。
授業の中で「クレーム対応」について話をしました。まー私は不在だったので他の先生が話をしたのですが。「問題点は何か?」という部分を考えさせました。そうすると「客が悪い」という意見が半数近くあったようです。きっとそういう時代なのだと思います。「自分は悪くない」「悪いのは相手」というスタンス。こういう部分が大きくなっていくのだと思います。だから「注意」を受けても改善されない。「変える必要はない」のです。悪いのは「他の人」だから。
イチロー氏がいう「自主性の危うさ」はここにあると思っています。「自分を律する」ことができる人間だけが「可能性」をつかむ。それができない人間は「埋もれていく」ことになる。それをどうとらえるか。世の中の風潮がそれを「良し」としているのであれば仕方ないのかなと思います。それなのに我々にだけ「求めらえる」のは違うかなと。「自己責任」という無責任な話の中で「自分で勝手にやれ」と求める。目の前だけではなくこれから先の「未来」をどうするかという話になるのです。その時には気づかない。だから大きな「差」が生まれていく。仕方ないのかもしれないなと思っています。
「事なかれ主義」が一番無難な生活を送れます。それが求められているのかも。こうなっていくと「教育」自体にそれほど興味関心がなくなっていきます。授業も「オンライン」で動画を流しておけば問題なく時間が過ぎていくでしょうし、「知識」だけがあればいいのであればわざわざ学校に来る必要はない。通学時間が削れればそのほうが「自分の時間」が作れますから。
根性論。勝利至上主義。言葉だけが先走ってしまう部分があるのかもしれません。実際はどうなのか。そのプロセスの中に「大切なこと」は埋もれていなかったか。これまでの流れは全てが「悪」なのか。これはもう今更言っても仕方ないと思っています。どこに向かうのか分かりません。それはそれで受け止めていかないといけないのかもしれないなと。