思うことを漠然と書きます。面白くない内容なので読み飛ばしてもらってもいいと思います。
以前から「全てはつながっている」と思っています。「競技場面だけ頑張る」というのはやはり無理。性格的なこともあると思いますが。物事は「根っこ」の部分では同じ。結局、「少しくらいいいだろう」と思う者は全ての場面で「まあいいだろう」と思う。補強できつくなったときに楽をしようとする選手は100%に近い確率で走練習の最後の数メートルを緩める。
「その場だけ」という部分はやはり他の部分にも出てくると思っています。「宿題をやる」ことにしてもそう。とりあえずやればいいという感覚の者は答えを丸写しします。「提出すること」が目的になるから。「やっているからいいでしょう?」という感じ。補強もメニューとして決まっているからやる。別にそれが腹筋であろうがスクワットであっても関係ない。「やれ」と言われているからやる。
上手く表現できないので思うことを思い浮かんだままに書いていますが。
本当に大切なことは何か。大きな声であいさつをすること?落ちているゴミを拾うこと?掃除をやること?違う気がしています。もちろん、それらの行為が「意味がない」というつもりはありません。やらないよりはやったほうがいいでしょう。しかし、これは「誰かにやらされること」ではない。自分が「必要だ」と思うからやる。怒られるからやるなんて言うのは愚の骨頂です。
結局「何のために」という感覚を持てなければ意味はないのです。「やっていないと怒られるからやる」という部分。宿題を提出しなければ担当の先生に怒られる。だから仕方なくやる。ここに何かの価値が存在するのか。高校生ではそこまで考えないかもしれません。だから「その場だけ」のためにやる。「考え方」だと思っています。
成績は「良い」か「悪い」かでどちらが好まれるかは明白です。言うまでもありません。が、実際問題働き始めて成績の良しあしで何かが変わるかと言われたらそうでもない気がします。高校時代成績が悪くても活躍できる人はいます。重視すべきは「悪い」からといって「投げてしまう」タイプや「もういいや」となってしまうタイプ。できないからやらなくていいのではない。できないから「できるようになる」ための取り組みができるかどうかなのです。
最後に何が残るのか。進学校に進んだら誰もが国公立に進学できるのか?強豪校に進んだら誰もがインターハイに進めるのか?大きな勘違いです。結局はその中で「何をするか」です。
宿題提出のために答えを写す。これは「やるだけ」なのです。練習をやっていてグランドに立って時間が過ぎれば終わる。これと同じ話。何が残るか。「意味がある」と思える行為でなければ何も残らない。そこに意味を見いだせるかどうか。ここは大きなことです。
私がグランドに立つ。これは何のためか?別にインターハイに選手が進んで周りから「すごいね」と言われるためではない。そこには一切の価値を感じない。周囲から評価を受けために指導をするなら払下げです。自分の中では「無意味」でしかないから。自分自身の「信念」に基づいて指導する。ほかのことに対してもですが。
「何となくやる」というのでは意味がないと思っています。これは正解かどうか分からない。多くの高校生は「とりあえずやる」という感覚かもしれない。何故勉強をするのか?という答えが「良い大学に進みたいから」というレベルで終わってしまう感覚。「○○になりたい」という目標がれば良い方。実際は「○○になって何をしたいのか?」
だと思っている。その部分に対する「信念」がない中で「目指す場所」にたどり着いても生み出すものは少ない。
うーん、長くなる。そしてまとまらない。また書きます。
以前から「全てはつながっている」と思っています。「競技場面だけ頑張る」というのはやはり無理。性格的なこともあると思いますが。物事は「根っこ」の部分では同じ。結局、「少しくらいいいだろう」と思う者は全ての場面で「まあいいだろう」と思う。補強できつくなったときに楽をしようとする選手は100%に近い確率で走練習の最後の数メートルを緩める。
「その場だけ」という部分はやはり他の部分にも出てくると思っています。「宿題をやる」ことにしてもそう。とりあえずやればいいという感覚の者は答えを丸写しします。「提出すること」が目的になるから。「やっているからいいでしょう?」という感じ。補強もメニューとして決まっているからやる。別にそれが腹筋であろうがスクワットであっても関係ない。「やれ」と言われているからやる。
上手く表現できないので思うことを思い浮かんだままに書いていますが。
本当に大切なことは何か。大きな声であいさつをすること?落ちているゴミを拾うこと?掃除をやること?違う気がしています。もちろん、それらの行為が「意味がない」というつもりはありません。やらないよりはやったほうがいいでしょう。しかし、これは「誰かにやらされること」ではない。自分が「必要だ」と思うからやる。怒られるからやるなんて言うのは愚の骨頂です。
結局「何のために」という感覚を持てなければ意味はないのです。「やっていないと怒られるからやる」という部分。宿題を提出しなければ担当の先生に怒られる。だから仕方なくやる。ここに何かの価値が存在するのか。高校生ではそこまで考えないかもしれません。だから「その場だけ」のためにやる。「考え方」だと思っています。
成績は「良い」か「悪い」かでどちらが好まれるかは明白です。言うまでもありません。が、実際問題働き始めて成績の良しあしで何かが変わるかと言われたらそうでもない気がします。高校時代成績が悪くても活躍できる人はいます。重視すべきは「悪い」からといって「投げてしまう」タイプや「もういいや」となってしまうタイプ。できないからやらなくていいのではない。できないから「できるようになる」ための取り組みができるかどうかなのです。
最後に何が残るのか。進学校に進んだら誰もが国公立に進学できるのか?強豪校に進んだら誰もがインターハイに進めるのか?大きな勘違いです。結局はその中で「何をするか」です。
宿題提出のために答えを写す。これは「やるだけ」なのです。練習をやっていてグランドに立って時間が過ぎれば終わる。これと同じ話。何が残るか。「意味がある」と思える行為でなければ何も残らない。そこに意味を見いだせるかどうか。ここは大きなことです。
私がグランドに立つ。これは何のためか?別にインターハイに選手が進んで周りから「すごいね」と言われるためではない。そこには一切の価値を感じない。周囲から評価を受けために指導をするなら払下げです。自分の中では「無意味」でしかないから。自分自身の「信念」に基づいて指導する。ほかのことに対してもですが。
「何となくやる」というのでは意味がないと思っています。これは正解かどうか分からない。多くの高校生は「とりあえずやる」という感覚かもしれない。何故勉強をするのか?という答えが「良い大学に進みたいから」というレベルで終わってしまう感覚。「○○になりたい」という目標がれば良い方。実際は「○○になって何をしたいのか?」
だと思っている。その部分に対する「信念」がない中で「目指す場所」にたどり着いても生み出すものは少ない。
うーん、長くなる。そしてまとまらない。また書きます。