あまでうす日記

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鎌倉文学館で「生誕130年萩原朔太郎マボロシヲミルヒト展」をみて

2016-07-07 11:15:38 | Weblog


蝶人物見遊山記第212回&鎌倉ちょっと不思議な物語第369回




萩原朔太郎(明治9年1886年~昭和17年1942年)は鎌倉を3たび訪れています。

最初は大正2年1913年5月10日から14日の4日間で、27歳の朔太郎は妹ユキを同伴して、彼の初恋の人ナカが入院していた療養所を探して江の電の旧七里ガ浜駅周辺を尋ね歩いたようですが、とうとう見いだせず引き返したようです。

同じ年に手作りされた世界でたった1冊の歌集「ソライリノハナ」は彼女への思慕に貫かれた423首にのぼる唯一のそして最後の短歌集で、その中には「きちがひになりたくて爪屑を火ばちにくばてみて居やるかな」という中原中也が中学生の時の歌に似た作品もあります。

2回目はちょうど漱石が49歳で死んだ大正5年1916年12月のことで、詩人は坂の下の海月楼という旅館に翌年の2月まで滞在し、詩集「月に吠える」の編集に従事していますが、たまたま鎌倉にいた日夏耿之介と意気投合し大いに詩について語りあったようです。

最後は大正14年1925年に妻稲子の療養のために材木座の借家におよそ1年間滞在しています。朔太郎は幼いころから写真が好きで、焦点が合っていても焦点がそこにはないような茫洋とした写真を撮っていますが、彼が材木座で海岸に向かって撮影したモノクロームの映像にはいまも営業を続けている遠藤酒店が映っています。

詩人にとって最大の心残りは、彼自身が「無良心の仕事をはじめてした」と丸山薫に語ったように、昭和12年1937年に「南京陥落の日に」という詩を東京朝日新聞に発表したことでしょう。

「(中略)あげよ我らの日彰旗 人みな愁眉をひらくの時 わが戰勝を決定して よろしく萬歳を祝ふべし よろしく萬歳を叫ぶべし」というのが結びであるが、最後のリフレインがいかにも哀しい。後悔先に立たず、とはこのことでしょう。

なお本展は7月10日迄同館にてギリギリ開催中。


  大一番に善戦空しく敗れ去りその翌日から戦い始まる 蝶人

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