照る日曇る日第879回
「京の夢大阪の夢」、「少将滋幹の母」、「少将滋幹の母 乳野物語」、「幼少時代」の4著作を柱にした本巻ですが、私は2番目が一等面白く、次点は4番目の作品でした。
谷崎という人は母親に特別の感情を懐いた作家で、それが「母を恋ふる記」や「吉野葛」などにも通底し、その思慕が女性への崇拝と拝跪につながっていった訳ですが、「幼少時代」ではその黒髪や容姿や芳香、乳の味わいまでもっと具体的に叙述されていて面白い。
作家の母は生まれ故郷の蠣殻町浜町界隈では評判の美人3姉妹のうちで一番の美人だったというから、なんとなく後年の「細雪」の姉妹を想起してしまいます。
「少将滋幹の母」は、少将の美貌の母(在原業平の孫)への強烈なあこがれを描いた物語ですが、それはあたかも少将を谷崎その人に置き換えたような感が致します。
当代一の美女と謳われた少将の母は、あろうことかあの菅原道真を陰謀によって追いおとした時の最高権力者左大臣藤原時平の横恋慕によって、老いたる父大納言から強奪され、もはや手の届かない遠いところへ行ってしまうのです。
その後老父がこの世を去り、時平とその一族が道真の怨霊によって呪い殺されて四〇数年の星霜を経ったある春の宵、叡山横川から根本中堂の四辻までやってきた少将は、偶々雲母坂を下って現在の左京区一乗寺あたりに駒を進めたとき、風もないのに降りしきる黄昏時の満開の桜の樹の下に佇む一人の尼僧に巡りあいます。
そして末尾の要所を適宜ブツ切りで引用すると、ザッとこういうことになります。
「お母さま」と、滋幹はもう一度云った。彼は地上に跪いて下から母を見上げ、彼女の膝に靠れかかるやうな姿勢を取った。一瞬にして彼は自分が六七歳の幼童になった気がした。彼は夢中で自分の顔を母の顔に近寄せた。そしてその墨染の袖に沁みている香の匂に遠い昔の移り香を想い起しながら、まるで甘えているように母の袂で涙をあまたたび押し拭った。
しかし、滋幹の母を六代目の歌右衛門が演じる歌舞伎を、なんとしてもみたかったなあ。
平幕にとりこぼし上位に負ける大関はいつまで経っても綱は取れない 蝶人