あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

T.S.エリオット著・岩崎宗治訳・岩波文庫版「荒地」を読んで

2016-07-28 11:27:01 | Weblog


照る日曇る日第882回



 詩は時間の経過とともに現実の素直な描写やそれにともなう感情の吐露を離れて、もっと非現実的な世界、主観的で複雑な心象の世界へと表現を純粋に特化してゆく。

 それが詩の近代化とか現代化という現象なのだろうが、その道行きがそのまま詩の「進化」とか「進歩」ではないし、そこで作られる詩が、従来にはない新しさを備えていたとしても、ただちに藝術として優れたものであったりしないのは音楽の世界と同様自明のことわりである。
 
 エリオットによる「荒地」は、そういう意味では詩の世界を革命したという曰くつきの作品なのだが、誰の翻訳でなんど読んでも、いったい全体何を云いたいのかよく分からないし、注釈や解説と併せ読んで辛うじて意味の一端が呑み込めたと思ったとしても、格別面白くもおかしくもないので閉口する。

「荒地」はほんの短い詩篇なのにシェークスピアとかダンテとか聖書とか「聖杯伝説」とかフレーザーの「金枝篇」からの引用と引喩に満ち溢れていて、それを知っていないと正しい解釈が出来ない難解な代物らしいが、そんな高踏的でしち面倒くさい大正11年に英国で作られた詩なんて、少なくとも私には要らない。

 ただ一個所だけ「Ⅴ雷の言ったこと」の中で、「いつもきみのそばを歩いている三人目の人は誰だ?」というフレーズがあって、妙に気になる。思うにこれは萩原朔太郎の散文詩「死なない蛸」のごとき「不滅の実在」について触れているのではないだろうか。

 されど私は、こうゆうご大層なインテリゲンチャン御用達の大詩集とは無縁の荒れ地に一人立って、自分の書きたいことを、自分の書きたいようにチビチビ書いてくたばるのであろう。


  施設では楽しく過ごしてほしいのに夜中にいきなり殺されたりもする 蝶人

コメント
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