照る日曇る日 第1189回
フィクションと銘打ちながらも、相模原やまゆり園の殺人事件を主題とした小説である。後半は「心失者」を大量に殺害した植松聖を思わせる「さとくん」の心中と思想になり変った著者による、穏やかならぬ強烈な記述が、読む者の心を騒がせる。
「さとくん」は、もはや心を喪失した化け物はとうてい人間とはいえないある種の「反社会的存在!?」なので、天に代わってこれを討つと宣言し、驚いたことには実行してしまうのである。
しかしこの本で著者が、「さとくん」のその独断専行に対して、いっさい否定的な見解を表明せず、「その是非については、個々の読者がそれぞれ勝手に考えればいい」というような突き放した態度で終始している。
登場する様々な障害者の心が、あたかも「在る」が如くに描かれているのは救いだが、ある意味では植松聖に加担しているような印象すらあるのは、まあ話半分とは言え片手落ちではないだろうか。
それにしても、誰が重度の障害者の一人ひとりに、心があるとかないとか判定できるのだろうか? 心は意識と呼び変えてもいいだろうが、「さとくん」や植松や専門家が「心失者」と判断しても、どっこい有心者であることも多いのである。
7年前の2012年に義母が危篤になったとき、駆けつけた医師が、ろくろく診察もしないであっさりと臨終を告げたとき、甥のリョウちゃんが、義母の耳元で大声で「おばあちゃん! おばあちゃん!」と叫んだ途端、目をパッチリと開いて「よみがえった」夜の事件をはしなくも思い出した。
たとえ当該の超重度障害者が生れながらに化け物さながらの異形であり、心(意識)が皆無で、禽獣同然の垂れ流しであろうが、生ある限りその者を「人間ではない」と宣言することはできないし、ましてや神ならぬ身の分際で処断する権利など、どこにもないのである。
今朝は4時半に電話してきた息子よお母さんを寝かせてあげて 蝶人