照る日曇る日 第1272回
百閒ですぐに思い出すのは愛猫「ノラ」の失踪事件と晩年の芸術院会員を「いやだからいやだ」と断った話。前者は現在の犬猫ブームを先取りしているし、後者は師漱石の権威嫌いの感性の直弟子だったことを物語っている。しかし彼の得意中の得意であった借金魔処世術についてはどうにもついていけない。
解説で赤瀬川原平が「宇宙人の私小説」と評していて面白いが、彼の小説の大半は彼の実際の夢に拠ったもので、この書法はやはり師の漱石の「夢十夜」から学んだのであろう。
数多くの短編が登場して読者を楽しませてくれるが、戦争が始まって美食が出来なくなったので、自分の大好きなメニューを書き連ねて飢えを癒した「餓鬼道肴蔬目録」、作者のために献身的に酒を調達してくれた少年を悼む「1本七勺」が胸をうつ。
「東京日記その十五」のなかで、作者が芸妓に目玉を舌で舐められて「こちらの目玉おいしいわね」と評される箇所が出てくるが、少年時代の私も昔祖父に舐められて目の中のゴミを取ってもらった、あのゾロリとした触感を思い出して懐かしかった。

あなやというそのときに妻の左目に落ちた極小のゴミ痛し 蝶人