あまでうす日記

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国立能楽堂で「第19回青翔会」公演を見物しながら

2019-06-13 14:10:22 | Weblog


蝶人物見遊山記第310回&遥かな昔遠い所で第88回



千駄ヶ谷まで足を運んで能楽研修発表会を見物しながら、私はさいきんなぜだか能にひきつけられていく自分を不思議な思いで見つめ直していました。

というのもせんだって久しぶりに郷里に帰って、何気なく亡き祖父小太郎の手文庫を開いてみたら、宝生流の謡本大全と合わせて明治、大正、昭和3代にまたがる能関連の公演プログラムが出てきて、その中に祖父の名前があったからです。

彼が時々「東遊びの数々にい……」で始まる「羽衣」をうなっている姿は目撃していましたが、まさか「蝉丸」「鉢木」「俊寛」「隅田川」「藤戸」「頼政」「弱法師」「雲雀山」などを綾部、福知山、京都(枳殻邸の座敷能舞台)などで何度も演じていたとは迂闊にも知りませんでした。

昭和34年の綾部の「大本みろく殿」で開催された宝生流夏期謡曲大会で、祖父は「俊寛」のシテ役を務めていますが、当日の催主は、な、なんと大本教3代教主の出口直日で、彼女は出口京太郎氏と共に「藤」の舞囃子を務めているのです。

大本内部の分派闘争を戦っていた教主と、郡是を創始した波田野鶴吉翁の薫陶を受けて熱烈なるクリスチャンだった祖父小太郎が、同じ「みろく殿」の能舞台で舞ったり謡ったりしていたかと思うと、なんだか夢のようです。

宝生流の免許相伝状!も出てきました。大正11年9月に「大原御幸」「「攝待」「景清」「綾鼓」「求塚」「 砧」「定家」「卒塔婆小町」「鸚鵡小町」「木賊」の謡を17世宗家の寶生重英氏から相伝したというのですから、実力のほどはともかく丹波の下駄屋のオジサンの素人芸をいささか越える領域にまで達していたのはまず間違いないでしょう。

聞けば横浜に住んでいた妻君の祖父も、観世流の能楽師だったというからには、私が能楽の響きに惹かれる浅からぬ因縁があったのかもしれませぬ。

そういう個人的な感慨に耽っていたために、残念ながら「吉野天人」をメインとし「葛城」「融」「舎利」「萩大名」を加えたこの日の公演の記憶は定かではありませんが、長所よりも「舎利」における超ブタブタ君がドスンドスンと無闇に跳躍するてふ、能にあるまじき無様さと、狂言「萩大名」における野村万之丞(アドの上杉啓太も)の聞き取り困難な発声の悪さ、といった短所が、現在に至るも脳内記憶の奥底に不気味なまでに游曳している次第であります。


「丁寧に葉書の文字を書くことが選んでもらう近道よ」と妻 蝶人

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