照る日曇る日第1420回
2006年から10年までの作品を収録した歌集である。
グラバーの息子の倉場富三郎 敗戦直後、自死を遂げたり
極刑を求める声の清しさに揺れつつ昼のうどんを啜る
この人にもそう思われていたのかと貝の煮付けをつまみつつ聞く
墓地に咲く花は何ゆえこんなにもきれいでしょうか人もおらぬに
生前に続く時間を死後と呼ぶ咲ききわまりて動けぬ桜
焼きそばの匂いが不意に流れくる 花の咲く頃また会いましょう
静謐な川底から流れの上の空を透視しながらある種の諦観と悟達のリリシズムに至るような独特な歌いぶりだが、私が好きなのは彼が子供を詠った歌である。
去年より行方不明の少年のからだが春の溜池に浮く
子があれほど大事にしていた銀紙の捨てられており叱られしのちに
涅槃図のごとくあまたの動物にかこまれて子はベッドにねむる
川で泳ぎしことなきわれは山梨の川に息子を泳がせており
ピオーネの皮を十指に剥きながらむらさき色に染まりゆく子よ
捨てる前に写真に撮っておくというさびしきことを子はしていたり
父と子が遊べる時間は短い。これらの子供の歌を読んでいると、「梁塵秘抄」のあの「遊ぶをせんとや生まれけん」の悲傷のトレモロが聞こえてくるような気がする。
何をどう怒られたのか理解せずぬ子と食べておりふたりの夕餉
ある雪の降る夜のこと少年の絵本の中のランプ輝く
おとうとと兄が向き合い遊びいる夢より覚めて子はひとりなり
バラ園の香りにふかく濡れながらもう帰ろうと少年がいう
自らを叱るがごとく内気なる子をしかりたり夕食のあと
扇風機に向かって大きな口を開く小学生は進化するなく
子共だけでなく家族を詠んだ秀歌も多く、これらを読んでいるとなんとなく小津の映画や庄野潤三の小説が思い出されてくるのである。
「川崎市麻生区虹ヶ丘」父の住む団地のありて行きしことなし
生活は大丈夫かと問う父の静かに深く老いてゆくこえ
ひっそりと長く湯浴みをしていたり同窓会より戻りて妻は
綿雲のごとき会話をテーブルに浮かべて今日は楽しかりけり
わが腕と妻の脚とは絡まって取り出されたり洗濯機より
妻と子はどこへ行きしか桃色のキリンの首に上着をかけて
枇杷の木の実が生る頃のわが谷戸に蛍は飛ぶと古老語れり 蝶人