柳田國男自筆「原本 遠野物語」を読んで
照る日曇る日 第2042回
柳田國男が、佐々木喜善から聞き取った遠野の昔話を、柳田自身の毛筆で書きおろした草稿、それをペン字で原稿用紙に書き直したもの、そして1910年に限定350部で自費出版された初版本の朱字入り初稿を、初版本の版面と共に再現した「遠野物語」の原本が岩波書店から刊行されました。
これら3種の原稿を突き合わせながら読んでみると、なかなかに興味深い。一番初めの毛筆原稿などは収録作品も多少少ないが、インタビュー時点の原素材をかなり忠実に反映していて、後の2本に比べるとかなり違う。つまり柳田が少しく文学的にリライトした形跡がうかがえて興味深いのです。
巻末の三浦祐之氏の解説を読むと、三島由紀夫は、「遠野物語第22話」の短い怪異譚を高く評価していたそうです。
それは、佐々木喜善の曽祖母が亡くなった通夜の晩に、彼の祖母と母が囲炉裏の傍に座っている目の前を通り過ぎる噺なのですが、その個所を、初版本では「裾にて炭取にさはり丸き炭取なればくる〱る(原文は「くの字点」)とまはりたり」と表記しています。
これを読んだ三島由紀夫は「あ、ここに小説があった」と感嘆したわけですが、その前のペン字段階では「裾にて炭取にさはり炭取なればくる〱るとまはりたり」、最初の毛筆原稿では、「裾にて炭取にさはりくる〱るとまはりたり」であったことが確認できます。
つまり柳田國男は、佐々木の当初の「音声」を、本来の意味は同一でも、少しずつ微妙に修辞していき、それが3段階目に達したときに、初めて文学者三島の琴線に触れたということが出来るのでしょう。
柳田自身は、自分は佐々木の談話を「一字一句も加減せず」と断りながら「感じたるままに書きたり」というておりますが、このあたりに当初柳田の「遠野物語」が日本民俗学発祥の記念碑的な作品でありながら一風変わった文学作品とみなされ、多くの学者、専門家から無視、冷遇された真因が潜んでいるのではないでしょうか。
樟の葉っぱが落ちて芽が伸びる4月14日は「よい死の日」とや 蝶人