こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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『哲学的に考えてみる』の定義・・・医療を哲学的に考えてみる(6)

2013年09月12日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
『哲学的に考えてみる』

不肖コロ健、哲学の勉強をしたことはこれまでに一度も無いので、まずは、広辞苑をひく。

『哲学』という言葉は日本語には元々無く、philosophiatoの訳語である。
物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。というのが第一義のようで、古代ギリシャでは学問一般を意味していたが、近代の諸科学の分化・独立によって、諸科学の基礎づけを目指す学問、生の哲学・実存主義など、世界・人生の根本原理を追求する学問となったそうである。認識論、倫理学、存在論、美学などを部門として含む。
そして、二義的には、俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方・思想。ということらしい。
さらに、『哲学的』という言葉も定義されていて、哲学的とは哲学に関するさま。哲学でするように思考・行動するさま。となる。

もともと、日本語に無い言葉について定義し、それを用いて考えていくというのはたいそう難しく、はっきりいって離れ業としかいいようが無い。
日本の近代文化というのがいかに“移入された文化”であるかがわかる。
だが、方丈記にもあるとおり、物事の本質を言葉で表す文化というのは、日本にも古くからある。
だから、半分外国語のような『哲学』という言葉を用いても、医療という事項を考えてみることは可能だ。

いい加減、このテーマもいよいよ本格的に取り組みたい。
前段として、各用語を定義することにトライしてきたが、言葉というものを正しく使用することはことのほか難しい。
私は、病理医であり、普段から一つ一つの言葉を丁寧に扱っているつもりだ。なぜなら、患者さんの病気の部分から採取された組織に対して、一般に膾炙されている定義を用いずに、独自の考えで診断をしたら、臨床の現場は混乱してしまう。
昨今、EBM (evidence-based medicine;根拠に基づいた医療)という語が医学界に浸透しはじめているが、病理の世界では、そんなこととっくの昔から行われていることで、個々の病理医の勘だの印象だのといったものに基づいた診断は役に立たず、ずっと以前から豊富な知識と、高い観察能力をもった病理医がもっともEBMに馴染んでいる。だから、私もできる限りそうしたいところだが、これがなかなか難しい。

『医療を哲学的に考えてみる』というのは、一部都合のいい文章である。
まずは、哲学“的”と、“的”の字をいれている。これは、けっこう曖昧な表現であり、『私なりの哲学で』のような感じである。
考えてみる、というのも、“考える”という、そもそも答えの無いことをさらに“(試)みる”わけで、『とりあえず考えてみよう』みたいなことになる。

だが、突き詰めて正しい言葉を定義し、それを行おうとしても次に進むことはできない。従って次に進むにはここまで考えた時点での『医療を哲学的に考えてみる』を確定することが必要になる。

医療という語は前回定義してあるので、それに続けて文章を完成させる。

ある病気になった人を、その病気になる前の状態に近づけるために、医学教育を受けた人間(医師)がある病気の人に対して、その病気を治すために行うこと、とはどういうことであるのかを病理医である私が、これまでに経験してきたことをもとに、さまざまな分野にとりあえず通底しているであろう概念を考え、提案する。

ということにする。
さて、ではどこからどうやって取り組んだらよいか、次は対象と方法を考えてみる。