霞みのかかった夜明けの空が気持ちいい。今日は彼岸の入り。妻がお墓の掃除に行ってくれた。週末は天気が崩れるという予報なのがちょっと残念。
3月も半分を過ぎ、学校も休みとなり学生が減り、通勤は多少楽になった。身の回りでも異動が始まり医局にも空席が目立つようになってきた。新型コロナウイルス感染症対策として、入職前2週間の段階で転任先のチェックを受けなくてはならないというところもあるそうで、早い段階で離任した先生もいた。そんなこともあるのか、といったようなことがどんどん増えている。
昨日のようにジェンダーについて書くと色々批判を浴びるのではないかとちょっと心配したが、1日経って、炎上するようなこともなくホッとしている。そんなことが心配ならなにもブログなんて毎日せっせと書く必要はないのかもしれないが、不思議なもので日々飽きもせずに書いている。
誰もいない山奥で木から雪が落ちたときに発生する空気の振動は、聴く人がいなくても音といえるかという問題がある。では、誰にも読んでもらわないブログの記事に意味などあるだろうか。いや、仮に読んでもらったとしても読んだ人の心にほんの小さなさざ波を起こすことすらできないような記事に意味などないのではないか。
ブログでの自分の考えの発信とは、無人島で誰にも読んでもらえないとわかっていても何か記録を残すのとたいして変わらないのではないだろうか。無人島の著者は、それでもいつの日か誰かに読んでもらえると思って書くのだろうか。私が書いているこのブログの記事にしても誰かの目に触れてほしい、そのうちの誰か1人でもいいからその心の琴線に触れてほしい、と思って書いているのだろうか。
人間とは、なぜ、自分の考えたことが人の目に止まってほしいと思うのか、共感してほしいと思うからか。それは、大昔、地上で最も弱い存在であった頃から培われた、自己防衛のための情報共有という本能に由来しているのかもしれない。そしてそれが今や動画サイト、ブログ、SNSその他もろもろのツールをもった電脳化社会で爆発的に開花している、そんな時代私たちは生きているのだなあと思う。
ある意味どうでもいいことを