昨晩の中秋の名月、月の周りをウロウロしていた雲は夜中のうちに雨を降らせたようで、朝、写真を撮ろうとヴェランダに出たら足を濡らしてしまった。
ここのところ落ち込んでばかりで、自分でも一体どうなっているのかよくわからない。これもコロナ禍と関係しているのだろうか、1年半以上経って、”ウィズコロナ”の生活様式、社会様式が定着してきて、あれやこれやと私の周りの対外的活動も、以前と姿は違うものの再開してきた。
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この間も原稿書き程度はやっていたが、これなどこれまでの評価の裏返しに過ぎず、これといった評価を下されるわけではない。失敗しても次の依頼が来ないというだけのことだ。これが、研究会とか学会となると、面と向かって批判してくる人はいないものの、比較する対象が出現するためにどうしても自分の非力さを感じて、落ち込む。
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この癖、なんとかならないか。
人は人、気にしなさんな。
とよくいう。確かにそうで、落ち込んだところで、では、どうだったら満足できるのかということは明確ではない。
あの先生みたいに上手にプレゼンできたらなあ、とかあの先生みたいに知識が豊富であったならなあ、とか、数えだしたらきりがない。そのすべてを備えた人間にでもなりたいというのだろうか。でも、そんなことはあり得ない。そもそも自分は自分でしかなく、自分を確固たるものとして認識することでそういう不安、落ち込みというものは発生しないはずだ。
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それにいつまで経ってもこんなことでは、人生を楽しむことができないわけで、それは後々よほどの後悔となってしまうに違いない。死ぬとき、
ああ、いい人生だったな。
と思えるように生きるには、どういう考え方でいたらいいだろう。
堅苦しく考えない