きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

米国従属経済 財界② 相互依存一層強まる

2013-06-05 21:34:56 | 経済・産業・中小企業対策など
米国従属経済 財界② 相互依存一層強まる

日米貿易摩擦が激化した1980年代、アメリカ政府が日本に対日赤字解消を求めてきたことに対応するため、日本の産業界はアメリカでの現地生産化を進めました。

摩擦解消のため
財界団体(経団連や経済同友会、日本商工会議所)の手によって発足した日米経済協議会の会長を81年から89年に務めた長谷川周重(のりしげ)氏は、「日本に『輸入を増やせ』と要求されても、現実に増やすのがむずかしい以上、私は摩擦解消の切り札は、日本企業のアメリカでの現地生産化しかないと考える」(『どうする日本経済』)との戦略を当時から示していました。
日本で生産して、アメリカに輸出している製品をアメリカで生産すれば、貿易収支上の対米黒字は減る、という計算です。つまり、日本企業が多国籍化することによって、日米間の貿易上の不均衡を是正しようというもの。日本の大企業の多国籍化は、アメリカとの貿易摩擦問題が後押ししたのです。
貿易摩擦の焦点の一つだった自動車産業では、大手自動車メーカーによるアメリカでの現地生産が次々と始まります。ホンダはオハイオ州に進出。82年11月に生産を開始し、生産能力は44万台でした。テネシー州に単独進出した日産自動車は、83年6月に生産を開始。生産能力は45万台。トヨタ自動車は、カリフォルニア州とケンタッキー州に進出。それぞれ84年12月、86年3月に生産を開始しました。生産台数は30万台と24万台でした。
80年代から90年代を通じて、日米経済関係は、その相互依存関係を深めていきます。
経団連は96年、同会のアメリカ委員会での10回にわたる議論を経て、日米の経済関係の実態を分析した『日米経済ハンドブック』を発表しました。当時、経団連アメリカ委員長だった槙原稔三菱商事社長は、同書で日米関係を次のように指摘しています。
「世界の二大経済大国である日米の企業は、さまざまな分野で相互に競争する関係にもあるため、時としてあつれきも生じますが、その反面、お互いを経営戦略上の重要なパートナーとして捉え、世界中のマーケットにおいて各種の産業協力が行われており、両国の相互依存関係は一層強まっております」



2002年、東京都内で開かれた日米財界人会議

安保の役割強調
97年になると経団連は、「日米関係が両国や世界に果たしてきた意義を踏まえ、日米関係を将来に向けてより一層強化するために重要と考えられる五つの課題を提起したい」として、「日米関係の強化に向けた5つの重要課題」(97年4月15日)を発表しました。
①日本は自らの課題として規制の撤廃・緩和や一層の市場開放に取り組む②日米がアジアの一層の安定と発展に協力する③世界市場でのビジネス環境を整備する④経済協力や環境、エネルギー、食糧問題の解決を推進する⑤相互理解を深め、信頼関係を確保1することを掲げました。
①では、「政治の強いリーダーシップの下、規制の撤廃・緩和や一層の市場開放を主体的に取り組むことが不可欠」と強調しました。90年代以降、派遣労働の拡大など労働法制の緩和や金融、流通、運輸分野など多方面にわたる規制緩和の嵐が吹き荒れました。国民の暮らしと経済の基盤が掘り崩されていったのです。
②については、「日米関係の強化をはかることが、アジア地域の安定に寄与する」としたうえで、「さらに、日米安全保障体制がアジア地域の安定に果たしている意義をはっきりと認識し、経済界としても議論に参加していく」と指摘しました。「5つの重要課題」の説明文書ではさらに、「政治・安全保障面では米国のプレゼンス(存在)が必要である。米国のコミットメント(関与)を確実にするためにも日米安全保障体制が果たすべき役割が大きい」と強調しています。
アジア地域で「安定」的に日本の大企業が進出し多国籍化を進めるためには、日米安保が重要だとの認識を経団連は強調したのです。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年6月5日付掲載


1980年代は「プラザ合意」に象徴するように政府主導で日米間の貿易摩擦の解消が進みましたが、1990年代に入ると今度は財界が音頭をとって、日米の財界関係強化がすすんだのですね。
特に派遣労働の規制緩和、郵政民営化などの通ずる規制緩和が行われました。
今も日本経済は、その負の遺産を背負っています。
コメント
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