きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

米国従属経済 財界① 譲歩くり返した日本

2013-06-04 18:40:51 | 経済・産業・中小企業対策など
米国従属経済 財界① 譲歩くり返した日本

日米の大企業経営者が両国の経済政治問題を協議する日米財界人会議は、1961年に発足しました。日本側の日米経済協議会と米側の米日経済協議会の合同会議という形をとり、両協議会の代表が共同議長を務めています。
49回目となる2012年の会議は、国内のホテルで開かれました。採択された共同声明は、環太平洋連携協定(TPP)への日本の参加や原発維持を日本政府に求めました。
この日米財界人会議は「日本の財界とアメリカの経済界との正式な会合」(経団連事務局幹部)で、戦後の日米経済をめぐる議論の場となってきました。
日本とアメリカの関係は、1980年代に入ると貿易摩擦問題が両国間の焦点となってきました。



都内のホテルで開かれた日米財界人会議=2012年11月9日

きわめて威圧的
87年から90年まで外務省の北米第二課長として日米経済関係を担当した藪中三十二(やぶなか・みとじ)氏は、著書の中で「1980年代は、アメリカとの経済摩擦に明け暮れた10年であった。毎日のようにアメリカとの貿易交渉が新聞紙面のトップを飾り、しかも、毎回『アメリカからの強硬な市場開放要求』と『日本の大幅譲歩』というワン・パターンの繰り返しであった」(『対米経済交渉』)と指摘しています。
当時、日米財界人会議でも、アメリカから強い対日要求が突きつけられていました。
85年にアメリカのミネアポリスで開かれた会議の様子について、日本側議長だった長谷川周重(のりしげ)住友化学工業会長(当時)は、著書の中で次のように振り返っています。
「ミネアポリスの日米財界人会議では、『日本との貿易インバランス(不均衡状態)はもはや許容不能で、かつ耐えがたい。もし日本が劇的で目に見える行動をとらない場合は、保護主義への圧力はさらに高まるだろう』といった、きわめて威圧的で警告的な意見が出されていた」(『どうする日本経済』)
長谷川氏は、アメリカの「威圧的」要求について、こうも指摘しています。
「85年7月に通産大臣の諮問機関として発足した産業構造審議会へのアメリカ側の注文は、まさにそうした例だった。産業構造審議会は、日本の市場開放や産業構造のあり方を問い直すことで21世紀の日本のあるべき姿を考える重要な役割を担った審議会である。改めて強調するまでもなく、内政不干渉は国家間の大原則であり、日本の進路は日本が決めるのが当然の道筋である。しかしその原則を踏み越えて、アメリカは産業構造審議会の委員にアメリカ人を入れるようにと要求してきたのである。こうした準公務員的立場の委員に外国人を起用することは、アメリカでもありえないことである。結果的には委員としてではなく、オブザーバーとしてアメリカ人を入れることになったが、私は日本がそれほどまで譲歩する必要はなかったと思う。GHQ時代のようにアメリカが日本を扱う姿勢は、はっきり改めてもらわなければならない」(前掲書)
しかし、このアメリカの「威圧的」要求は、今でも改められてはいません。

日本財界の姿勢
TPPへの日本の参加についてアメリカ政府が昨年行った意見公募に対し、サービス産業連盟は、「ルールや規制を議論する審議会に、たんなるオブザーバーとしてではなく、正式メンバーとして日本で操業する米国の主要な企業および団体を参加させるさらなる努力を」と求めているのです。
アメリカが「威圧的」態度をとる背景には、日本の財界の姿勢があります。80年から86年まで経団連会長を務めた稲山嘉寛(よしひろ)氏は、このアメリカの強圧的態度を前にしても、「アメリカに協力することが日本のためになる」(前掲書)といいきります。稲山氏を継いで会長となった斎藤英四郎氏も「経団連としては自由主義経済を守るという立場」(前掲書)であるとしていました。
日本の財界は、経済成長を果たした以降も、アメリカに「不満」は表明しても、決して「自由主義経済」の盟主には毅然とした態度を貫くことができないのです。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年6月4日付掲載


日本政府がアメリカ言いなりになるのは、それなりに歴史的要因があるのですが…。
日本の財界もアメリカ財界いいなりになる歴史的要因や経過があるんですね。

「過去を語り伝える文化の創造」ドイツからどう学ぶ

2013-06-04 16:52:16 | 平和・憲法・歴史問題について
「過去を語り伝える文化の創造」ドイツからどう学ぶ
=望月幸男=

もう10年近く前になるが、友人・知人とともにアウシュヴィッツ収容所をはじめとしたポーランド旅行を試みた。その際、現地のポーランド人案内人が、ナチスによる占領時代の悲惨な体験を語りながらも、他方でこのようにいった。「いまではドイツとドイツ人に怨念もありません。彼らとはフランス人やアメリカ人と同じようにつき合えます」と。

ポーランド人に和解と許しの心
私は、過去の戦争における不法と残虐行為に対するドイツの反省と謝罪の積み重ねが、被害国民ポーランド人のなかに、このような和解と許しの心を生み出しているのか、と深い感動におそわれた。
ドイツとドイツ人によるそうした数多くの積み重ねの事例を2、3挙げよう。はやくも1952年、フランス・西独などによって「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」が発足した。これは石炭と鉄という戦略物資の生産などを国際管理することによって、戦争の物質的原因を除去することをめざした国際条約である。史上いくたびも戦火をまじえてきたフランス・ドイツ双方のまさに不戦の誓いが核心となっていた。この条約こそが、今日のヨーロッパ連合(EU)の最初の礎石となったのである。



ナチスがポーランドに建てたアウシュビッツ強制収容所・ビルケナウの中央に延びる鉄道の引き込み線。ここで降ろされたユダヤ人の多くがガス室へ。アウシュヴィッツでは、ユダヤ人110万人が殺されたといわれます。(大内田わこ撮影)

ひたむきな反省 近隣国の信頼に
また西独首相プラントが、ポーランドのユダヤ人犠牲者追悼記念碑を前に大地にひざまずいてドイツとドイツ人の「罪」を謝罪したのは、1970年のことであった。また1985年の敗戦40周年にあたり、ヴァイツゼッカー大統領は国会で演説を行い、戦時中の「ドイツの罪」に対するひたむきな反省を吐露し、内外からの共感を呼んだ。
このような政治的パフォーマンスは、歴代の政治指導者たちによって継承され、近隣諸国の政治的信頼を深めさせてきた。こうした努力の総仕上げのように、2000年には戦時中の強制労働の被害者への補償を定めた「記憶・責任・未来」基金の設立が、全政党の同意のもとに成立した。
これら一連の積み重ねが、冒頭に紹介したポーランド人のドイツ人観に結実していると考えられる。そこにはドイツとドイツ人の政治的道義の到達度が示されている。それによってドイツは近隣諸国と和解を進め、いまではヨーロッパ連合の指導国となっている。

橋下暴言を生む政治道義の退廃
これに比して日本はどうであろうか。いまや北東アジアの孤児ともいうべき状態に陥ってはいないだろうか。日本の歴代政府は、戦時の侵略と非人道的行為への反省を怠り、その責任をあいまいにし続けてきた。とりわけ昨今の安倍晋三首相の言動は、戦後秩序の逆転とも思える改憲思想を露骨に表明している。そこには政治的道義の退廃さえ感じさせるものがある。
こうして行き着いた地点が、従軍慰安婦問題にかんする橋下徹維新の会共同代表の発言であろう。ちなみにドイツでは、この種の暴言を発した場合には、国会議員であれ、大臣であれ、おそらく職にとどまることはできない。
戦時の非人道行為や戦争犯罪の当事者たちが死に絶えようとしている今日、ドイツでは「過去を語り伝える文化の創造」という見地が強調されている。こうした道義的文化の大道を歩みつつあるドイツから、私たちはなにをどう学び、いかに行動すべきか問われている。
(もちだ・ゆきお=同志社大学名誉教授・ドイツ近現代史)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年6月4日付掲載


過去の戦争に対してどう向き合うか…。
同じ侵略戦争を行い、悲惨な大量虐殺をおこなったドイツと日本。
その内容と質は違い、どちらがひどいかどうかは比較できるようなものではありません。
でも、過去に向き合い方は、ドイツと日本であまりにも違いがありすぎると思いますネ。