米国従属経済 財界① 譲歩くり返した日本
日米の大企業経営者が両国の経済政治問題を協議する日米財界人会議は、1961年に発足しました。日本側の日米経済協議会と米側の米日経済協議会の合同会議という形をとり、両協議会の代表が共同議長を務めています。
49回目となる2012年の会議は、国内のホテルで開かれました。採択された共同声明は、環太平洋連携協定(TPP)への日本の参加や原発維持を日本政府に求めました。
この日米財界人会議は「日本の財界とアメリカの経済界との正式な会合」(経団連事務局幹部)で、戦後の日米経済をめぐる議論の場となってきました。
日本とアメリカの関係は、1980年代に入ると貿易摩擦問題が両国間の焦点となってきました。

都内のホテルで開かれた日米財界人会議=2012年11月9日
きわめて威圧的
87年から90年まで外務省の北米第二課長として日米経済関係を担当した藪中三十二(やぶなか・みとじ)氏は、著書の中で「1980年代は、アメリカとの経済摩擦に明け暮れた10年であった。毎日のようにアメリカとの貿易交渉が新聞紙面のトップを飾り、しかも、毎回『アメリカからの強硬な市場開放要求』と『日本の大幅譲歩』というワン・パターンの繰り返しであった」(『対米経済交渉』)と指摘しています。
当時、日米財界人会議でも、アメリカから強い対日要求が突きつけられていました。
85年にアメリカのミネアポリスで開かれた会議の様子について、日本側議長だった長谷川周重(のりしげ)住友化学工業会長(当時)は、著書の中で次のように振り返っています。
「ミネアポリスの日米財界人会議では、『日本との貿易インバランス(不均衡状態)はもはや許容不能で、かつ耐えがたい。もし日本が劇的で目に見える行動をとらない場合は、保護主義への圧力はさらに高まるだろう』といった、きわめて威圧的で警告的な意見が出されていた」(『どうする日本経済』)
長谷川氏は、アメリカの「威圧的」要求について、こうも指摘しています。
「85年7月に通産大臣の諮問機関として発足した産業構造審議会へのアメリカ側の注文は、まさにそうした例だった。産業構造審議会は、日本の市場開放や産業構造のあり方を問い直すことで21世紀の日本のあるべき姿を考える重要な役割を担った審議会である。改めて強調するまでもなく、内政不干渉は国家間の大原則であり、日本の進路は日本が決めるのが当然の道筋である。しかしその原則を踏み越えて、アメリカは産業構造審議会の委員にアメリカ人を入れるようにと要求してきたのである。こうした準公務員的立場の委員に外国人を起用することは、アメリカでもありえないことである。結果的には委員としてではなく、オブザーバーとしてアメリカ人を入れることになったが、私は日本がそれほどまで譲歩する必要はなかったと思う。GHQ時代のようにアメリカが日本を扱う姿勢は、はっきり改めてもらわなければならない」(前掲書)
しかし、このアメリカの「威圧的」要求は、今でも改められてはいません。
日本財界の姿勢
TPPへの日本の参加についてアメリカ政府が昨年行った意見公募に対し、サービス産業連盟は、「ルールや規制を議論する審議会に、たんなるオブザーバーとしてではなく、正式メンバーとして日本で操業する米国の主要な企業および団体を参加させるさらなる努力を」と求めているのです。
アメリカが「威圧的」態度をとる背景には、日本の財界の姿勢があります。80年から86年まで経団連会長を務めた稲山嘉寛(よしひろ)氏は、このアメリカの強圧的態度を前にしても、「アメリカに協力することが日本のためになる」(前掲書)といいきります。稲山氏を継いで会長となった斎藤英四郎氏も「経団連としては自由主義経済を守るという立場」(前掲書)であるとしていました。
日本の財界は、経済成長を果たした以降も、アメリカに「不満」は表明しても、決して「自由主義経済」の盟主には毅然とした態度を貫くことができないのです。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年6月4日付掲載
日本政府がアメリカ言いなりになるのは、それなりに歴史的要因があるのですが…。
日本の財界もアメリカ財界いいなりになる歴史的要因や経過があるんですね。
日米の大企業経営者が両国の経済政治問題を協議する日米財界人会議は、1961年に発足しました。日本側の日米経済協議会と米側の米日経済協議会の合同会議という形をとり、両協議会の代表が共同議長を務めています。
49回目となる2012年の会議は、国内のホテルで開かれました。採択された共同声明は、環太平洋連携協定(TPP)への日本の参加や原発維持を日本政府に求めました。
この日米財界人会議は「日本の財界とアメリカの経済界との正式な会合」(経団連事務局幹部)で、戦後の日米経済をめぐる議論の場となってきました。
日本とアメリカの関係は、1980年代に入ると貿易摩擦問題が両国間の焦点となってきました。

都内のホテルで開かれた日米財界人会議=2012年11月9日
きわめて威圧的
87年から90年まで外務省の北米第二課長として日米経済関係を担当した藪中三十二(やぶなか・みとじ)氏は、著書の中で「1980年代は、アメリカとの経済摩擦に明け暮れた10年であった。毎日のようにアメリカとの貿易交渉が新聞紙面のトップを飾り、しかも、毎回『アメリカからの強硬な市場開放要求』と『日本の大幅譲歩』というワン・パターンの繰り返しであった」(『対米経済交渉』)と指摘しています。
当時、日米財界人会議でも、アメリカから強い対日要求が突きつけられていました。
85年にアメリカのミネアポリスで開かれた会議の様子について、日本側議長だった長谷川周重(のりしげ)住友化学工業会長(当時)は、著書の中で次のように振り返っています。
「ミネアポリスの日米財界人会議では、『日本との貿易インバランス(不均衡状態)はもはや許容不能で、かつ耐えがたい。もし日本が劇的で目に見える行動をとらない場合は、保護主義への圧力はさらに高まるだろう』といった、きわめて威圧的で警告的な意見が出されていた」(『どうする日本経済』)
長谷川氏は、アメリカの「威圧的」要求について、こうも指摘しています。
「85年7月に通産大臣の諮問機関として発足した産業構造審議会へのアメリカ側の注文は、まさにそうした例だった。産業構造審議会は、日本の市場開放や産業構造のあり方を問い直すことで21世紀の日本のあるべき姿を考える重要な役割を担った審議会である。改めて強調するまでもなく、内政不干渉は国家間の大原則であり、日本の進路は日本が決めるのが当然の道筋である。しかしその原則を踏み越えて、アメリカは産業構造審議会の委員にアメリカ人を入れるようにと要求してきたのである。こうした準公務員的立場の委員に外国人を起用することは、アメリカでもありえないことである。結果的には委員としてではなく、オブザーバーとしてアメリカ人を入れることになったが、私は日本がそれほどまで譲歩する必要はなかったと思う。GHQ時代のようにアメリカが日本を扱う姿勢は、はっきり改めてもらわなければならない」(前掲書)
しかし、このアメリカの「威圧的」要求は、今でも改められてはいません。
日本財界の姿勢
TPPへの日本の参加についてアメリカ政府が昨年行った意見公募に対し、サービス産業連盟は、「ルールや規制を議論する審議会に、たんなるオブザーバーとしてではなく、正式メンバーとして日本で操業する米国の主要な企業および団体を参加させるさらなる努力を」と求めているのです。
アメリカが「威圧的」態度をとる背景には、日本の財界の姿勢があります。80年から86年まで経団連会長を務めた稲山嘉寛(よしひろ)氏は、このアメリカの強圧的態度を前にしても、「アメリカに協力することが日本のためになる」(前掲書)といいきります。稲山氏を継いで会長となった斎藤英四郎氏も「経団連としては自由主義経済を守るという立場」(前掲書)であるとしていました。
日本の財界は、経済成長を果たした以降も、アメリカに「不満」は表明しても、決して「自由主義経済」の盟主には毅然とした態度を貫くことができないのです。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年6月4日付掲載
日本政府がアメリカ言いなりになるのは、それなりに歴史的要因があるのですが…。
日本の財界もアメリカ財界いいなりになる歴史的要因や経過があるんですね。