今、大相撲九州場所が行われています。九州場所で人気があったのは、かつては地元出身の大関魁皇でした。彼の持つ記録に、通算2位の勝利数1047勝があります。当時、横綱千代の富士が持っていた記録1045勝を塗り替えたことで注目を集めました。もっとも、強さで達成した千代の富士とは違って、魁皇は39歳まで現役だった、驚異的な力士寿命の長さで達成した記録です。
千代の富士の記録とは意味合いが違うことは魁皇自身も理解しており、「勝ち星の数で上回ったといっても、あの大横綱を上回ったことにはならない」と認めています。それでも、魁皇は大関以下の力士では最多となる、通算5回の優勝があります。下手な横綱よりは強かった大関でした。たまたま、その優勝が連続していなかったので横綱にはなっていませんが、大関という難しい地位を10年以上務めた実績があります。
魁皇の相撲は、左四つで右上手を引いてからの投げが必勝パターンでした。当時、四つ相撲になったら絶対に勝てないと思われたほどの安定感を誇っていた横綱貴乃花に、四つ相撲で勝てる唯一の力士でした。魁皇が勝つときは、右上手を引いてすぐに投げを打った時でした。魁皇はいくつかの怪力伝説を残しており、ビールケースを中身が入った状態で2ケース片手で持てる、リンゴを握りつぶせるなどの伝説があります。
そんな魁皇も、晩年は毎場所のように8勝7敗が続き議論も呼びました。ライバル千代大海は序盤戦に強く、前半戦でカド番脱出は堅い成績を残していましたが、魁皇は中日を終えて4勝4敗のような低迷はざらでした。しかし、そこから他の大関との対戦で白星を拾って、終わってみると8勝7敗に収まっていることが多かった記憶です。
魁皇は11回のカド番がありますが、ほとんどが負傷休場によるものでした。皆勤しての負け越しはほとんどなく、そこに大関としての誇りを持っていたのではと思われます。魁皇が引退した場所は中日で3勝5敗で、得意としていた大関戦を落として3勝6敗となり、皆勤しての負け越しが濃厚になったので、そこで引退の決断を下すことになりました。
魁皇は39歳まで取ったことで、悔いなどはないように思えますが、5回の優勝の中に地元九州場所がなかったことが、ひょっとしたら抱えている小さな悔いかもしれません。
千代の富士の記録とは意味合いが違うことは魁皇自身も理解しており、「勝ち星の数で上回ったといっても、あの大横綱を上回ったことにはならない」と認めています。それでも、魁皇は大関以下の力士では最多となる、通算5回の優勝があります。下手な横綱よりは強かった大関でした。たまたま、その優勝が連続していなかったので横綱にはなっていませんが、大関という難しい地位を10年以上務めた実績があります。
魁皇の相撲は、左四つで右上手を引いてからの投げが必勝パターンでした。当時、四つ相撲になったら絶対に勝てないと思われたほどの安定感を誇っていた横綱貴乃花に、四つ相撲で勝てる唯一の力士でした。魁皇が勝つときは、右上手を引いてすぐに投げを打った時でした。魁皇はいくつかの怪力伝説を残しており、ビールケースを中身が入った状態で2ケース片手で持てる、リンゴを握りつぶせるなどの伝説があります。
そんな魁皇も、晩年は毎場所のように8勝7敗が続き議論も呼びました。ライバル千代大海は序盤戦に強く、前半戦でカド番脱出は堅い成績を残していましたが、魁皇は中日を終えて4勝4敗のような低迷はざらでした。しかし、そこから他の大関との対戦で白星を拾って、終わってみると8勝7敗に収まっていることが多かった記憶です。
魁皇は11回のカド番がありますが、ほとんどが負傷休場によるものでした。皆勤しての負け越しはほとんどなく、そこに大関としての誇りを持っていたのではと思われます。魁皇が引退した場所は中日で3勝5敗で、得意としていた大関戦を落として3勝6敗となり、皆勤しての負け越しが濃厚になったので、そこで引退の決断を下すことになりました。
魁皇は39歳まで取ったことで、悔いなどはないように思えますが、5回の優勝の中に地元九州場所がなかったことが、ひょっとしたら抱えている小さな悔いかもしれません。