昔の試合の記憶から、2001年高校選手権準々決勝の国見対武南の記憶です。当時、埼玉県代表の武南高校がベスト8まで勝ち上がったことが嬉しくて、遠く駒沢競技場まで出かけた試合観戦でした。当時の武南はトップ下の津雲のパスから組み立てるサッカーをしていましたが、この試合では国見の強さを強烈に感じました。
当時の国見は、のちにJリーグで活躍するGK徳重健太、DF徳永悠平、MF大久保嘉人がいました。特に印象に残っているのは大久保で、意外にも当時のポジションはトップ下でした。高校選手権の連戦で膝を痛めていたらしく、テーピングががちがちに巻かれていましたが、それでもボールが収まり、パスは必ず味方の足元に正確に収まる技術を見せていました。その後Jリーグで成功するFWになったのは、C大阪にプロ入りしてからのことです。
また、国見は体力レベルの高さも強く感じました。国見の場合、徳永や大久保なら誰が監督でも使うでしょうが、スタメンの10人目、11人目を決めるときに体力重視の選考をしている印象も受けました。そのため、超高校級の選手がいなかった武南は、どうしても国見のプレスに後手を踏み、思うようにボールがつなげなくなってしまいました。
この年の国見は、その勢いのまま選手権で優勝し、小峰監督の手腕とともに黄金時代として語られることになりました。当時の国見のサッカーは、ロングボールを入れてまずは失点の危機を避けるという、よくタイトル戦の決勝戦で安全第一のサッカーをするような試合を、1回戦から徹底して行うという戦い方でした。トーナメント戦で負ければ終わりですから、考え方としては間違っていないですが、面白みという意味では今一つだった試合でした。
それでも、国見からはプロも数多く輩出しました。あの時代の育成年代としては、一つの結果を出せたチームでした。のちに、華麗なサッカーを見せる野洲高校や久御山高校などの例も見ましたが、勝たないと記憶に残らないことだけは確かでしょう。
当時の国見は、のちにJリーグで活躍するGK徳重健太、DF徳永悠平、MF大久保嘉人がいました。特に印象に残っているのは大久保で、意外にも当時のポジションはトップ下でした。高校選手権の連戦で膝を痛めていたらしく、テーピングががちがちに巻かれていましたが、それでもボールが収まり、パスは必ず味方の足元に正確に収まる技術を見せていました。その後Jリーグで成功するFWになったのは、C大阪にプロ入りしてからのことです。
また、国見は体力レベルの高さも強く感じました。国見の場合、徳永や大久保なら誰が監督でも使うでしょうが、スタメンの10人目、11人目を決めるときに体力重視の選考をしている印象も受けました。そのため、超高校級の選手がいなかった武南は、どうしても国見のプレスに後手を踏み、思うようにボールがつなげなくなってしまいました。
この年の国見は、その勢いのまま選手権で優勝し、小峰監督の手腕とともに黄金時代として語られることになりました。当時の国見のサッカーは、ロングボールを入れてまずは失点の危機を避けるという、よくタイトル戦の決勝戦で安全第一のサッカーをするような試合を、1回戦から徹底して行うという戦い方でした。トーナメント戦で負ければ終わりですから、考え方としては間違っていないですが、面白みという意味では今一つだった試合でした。
それでも、国見からはプロも数多く輩出しました。あの時代の育成年代としては、一つの結果を出せたチームでした。のちに、華麗なサッカーを見せる野洲高校や久御山高校などの例も見ましたが、勝たないと記憶に残らないことだけは確かでしょう。