『中央公論』1月号は、読みごたえがありました。
特集は、
宗教が「死」を見つめ直す
石牟礼道子「花の文を」
「死者と共に在るわたしたち」山折哲雄×若松英輔
etc
でした。
石牟礼さんは本誌の中で、第一次訴訟派で水俣病語り部の杉本栄子さんの言葉を紹介しています。
栄子さんの死の一年ぐらい前の言葉です。
道子さん、私はもう、許します。
チッソも許す。
病気になった私たちを迫害した人たちも全部許す。
許すと思うて、祈るごつなりました。
毎日が苦しゅうて、祈らずにはおれん・・・・。
何ば祈るといえば、人間の罪ばなあ。
自分の罪に対して祈りよっと。
人間の罪ちゅうは、自分の罪のことじゃった。
あんまり苦しかもんで、人間の罪ば背負うとるからじゃと思うようになった。
こういう酷(ムゴ)か病気が、二度とこの世に残らんごつ、
全部背負取って、あの世に持って行く。
錐でギリギリもみ込むごつ、
首のうしろの盆の窪の疼(ウズ)くときが、いちばん辛か。
そういうとき、人間の仇は取るぞとばかり考えようった。
親の仇は、とるぞとばかり考えよった。
親の仇、人間の仇とばかり、思いつめよりました。
それで、疼きも一段ときつかったわけじゃ。
許すとという気持ちで祈るようになってから、
今日一日、何とか生きられるようになった。
帰命尽十方無碍光如来 なむあみだぶつ