昨晩は、くりのみ会・《道元とカウンセリング》でした。
学習会の後は、会場1階の和風レストランで、定例の夕食・懇談タイムをもちました。
参加者は6名。
充実した学習会の後の、楽しい交流の場です。
今回の話題の一つは、「キリスト教と仏教」について。
メンバーのお一人の村田さんが、
イエスを求めキリスト道を歩まれている井上洋治神父が、
法然上人にも傾倒しているとのお話をしてくれました。
併せ、「南無アッパ」をとなえていることを教えてくれました。
早速、本日午後、図書館で一冊借りてきました。
『法然 イエスの面影をしのばせる人』
井上洋治著 2001年1月20日 初版第一刷
筑摩書房
「あとがき」からの引文します。
イエスを求めながらキリスト道を今日までずっと歩み続けてきた私であるが、
しかしそれ以来、法然の後ろ姿は私の心から消え去ったことはない。
ただ誤解のないように付け加えさせて頂ければ、
私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、
宗教はどの道からでもみな同じこころに到達するのだとか言っているのではない。
キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるとということであって、
思索するということではない。
人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。
私は毎日南無アッパをとなえているキリスト者であって、
南無阿弥陀仏をとなえている念仏者ではない。
その意味では、私には法然を正面から論じる資格はないかもしれないが、
しかしただ一筋にキリスト道を生きぬいてきた者として、
仏道に生命を懸けて歩んだ法然の後ろ姿に憧れ、
魅せられているわけなのである。
そしてその法然の後ろ姿は、まさに私にとって、
師イエスの後ろ姿をしのばせるものでもあったのである。
WEB散策をしていましたら、次の一文を見つけました。
法然を敬愛する神父は「南無アッバ」と祈る。
南無は「すべてお任せします」といった意味。
アッバとは、お父ちゃんのような神さまだ。
苦しみの果てにたどり着いた宗教観はおおらかである。