毎田周一師の言葉をお届けします。
*釈尊の始中終が慈悲である。例へば慈悲故に出家せられたのである。
*親鸞が御本書をかゝれたのも、道元が眼蔵を著はされたのも、たゞ慈悲故にである。
*仏の慈悲に触れることが仏教に触れることである。その他ではない。
*仏の智慧に触れるのは、唯仏与仏といふ如く、仏と仏との境涯である。
仏凡一体となり得るのは、たゞ仏の慈悲に依る。
併しその慈悲に溶かされて、凡夫も仏の智慧に触れる。
*凡夫の立場は仏の慈悲を仰ぐ事に尽きる。
さればこそ正信偈には先ず帰命無量寿如来と打出される。
そして次いで南無不可思議光である。
慈悲を仰いで智慧に遭ふのである。
*慈悲とは不可思議なものである。
これは生命の不可思議であらう。
寿命無量といふことである。
永遠の生命を不可思議と受取らなければ、それを捉へたことにはならない。
*不可思議光とは、慈悲の如来の智慧である。
*慈悲を知るといふことが、即ち凡夫への安住である。
今週土曜日(12月20日) 親鸞とカウンセリングコースを開催します。
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