今晩、新小岩のお寺様で開催された「大経の会」に出かけました。
ふた月に一回、講師の里村専精先生が新潟から上京されます。
今晩は、『仏説無量寿経・巻下』 真宗聖典(大谷派)
科文105「明第三大善大悪」の箇所を教えていただきました。
先生のお話で、ボクが学んだところ。
*三明(サンミョウ)の中の「漏尽」の理解に関して
三明は、
宿命通
天眼通
漏尽通…一般には、「漏(煩悩)が尽きる」とするが、凡夫往生の立場から考えると
「煩悩をつくして学び続ける」としたい。
和讃に「無明長夜の燈炬なり」とありますが、
念仏の行者にとってはまた凡夫にとっては、漏(煩悩)は光明に照らされる
大事な機縁になります。
*『大無量寿経』に「仏仏相念」の教えがあります。
世尊と阿難の出会いの場面ですが、
仏・世尊と仏・阿難の出会いの場面と理解するのではなく、
お念仏に生きる世尊とお念仏に生きる阿難が出会っていると理解したいと思います。
実は、昨晩、光明団の帰りに、友人の高◇さんと議論したところでもあります。
ボクは、この場面をカウンセリング関係に置き換えて理解するのですが、
カウンセラーとクライエント関係は、まず対面からスタートして、感得、感応、感応道交のプロセスを
歩むと思います。
そして、別個の二人が一如の時空が現象する。
そのような場面を、「仏(カウンセラー)仏(クライエント)相念」とします。
もちろん、その時は(カウンセラー)という役割も、(クライエント)という役割も、
両者ともに超えているということです。
*念仏とは?
人が念仏する。…自力の念仏
念仏が念仏する。(一遍さんのことば)