私のペンシルケースには、「肥後の守」が入っている。
この頃は、若い先生方の多くが、「肥後の守」を知らない。
知らなくても当然である。若い先生方を責めることはできない。
「肥後の守」など、使ったことがないのだから。
子どもの頃、「肥後の守」や小刀が遊びの必需の道具であったのは、我々年代が最後なのであろう。
話を本題に進める。
我が日本国民の一番の長所は、勤勉・実直と器用さにあったと思う。
この能力が、中小零細企業の財産であり、日本経済を支えてきたと私は思っている。
ところが、小学校の図工の時間の短縮に象徴されるように、子どもたちが残念ながら不器用なのだ。
例えば、先日も4年生の図工の授業でのこと。
方眼用紙を書かせていたのだが、クラスのほとんどが定規を使って直線を書くことができないのだ。
また、釘打ち。
軍手をして釘打ちをさせたり、ペンチで釘をつまんで釘打ちをさせているのだ。
これなどほんの一例です。
国家戦略の一番の基本は小学校の教育にあると思うのですが、参議院選に向けて新党ができたりと賑やかですが、「教育」を主要課題にした議論が聞こえないのが本当に残念であり、この国の行く先が本当に心配になります。
井上ひさしさんが、9日朝、ご自宅で死去されたそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100412-00000256-yom-soci
多くの方々が追悼の言葉は寄せていますが、私が一番ズシンと受け止めたのは渡辺美佐子さんの追悼の言葉。
5月からの『ムサシ』のロンドン、さいたま、ニューヨーク公演が、追悼公演になってしまった。井上さんがこの作品に込めた『報復の連鎖を断ち切りたい』という切実な思いを、世界へのメッセージとして伝えていきたい」とコメントした。
※アンダーアインは、聞者・くりのみ。
『報復の連鎖を断ち切る』のを教えた人に、法然上人のお父さんもいましたね。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/art/379043/
高校高校の先輩・菅原文太の先輩・菅原文太さんのことば。
「天国では書くのをやめて、別の事を考えたほうがいい。もう十分にやったよ。山形の田舎の生まれなんだから『農業やれよ』と言いたいね。俺はこっちで酒を飲んでるから、向こうでゆっくり飲めよ」と文太流で締めくくった。
井上さんが、揮毫を依頼されたときのことば。
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに 書くこと
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
まじめなことをだらしなく
だらしないことをまっすぐに
まっすぐなことをひかえめに
ひかえめなことをわくわくと
わくわくすることをさりげなく
さりげないことをはっきりと
書くこと
井上ひさし
只今、後楽園ドームに来ました。
巨人対中日の観戦です。
「巨人・大鵬・卵焼き」世代ですが、そんなに巨人好き・野球好きと言うほどでもありません。
知り合いからチケットがまわってきたので、お伴です。
阿部のセンター前ヒットで巨人が1点を先取しました。
【落穂拾い】No269 S・Yさんの「愛語」の実践 を、ホームページに更新しました。
S・Yさんは、ある小学校の用務主事さんです。
お仕事熱心なS・Yさんのようなお方のことを、伝教大師・空海さんの「一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり」
くりのみ会ホームページは、下記からどうぞ!
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kurinomi/index.html
昨日に引き続いて、『臨床瑣談』からの【落穂拾い】をお届けします。
医療行為は幾何学よりもさらに「王道」がない。予期できない偶然、些細な特殊事情、正しそうな解釈の誤り―そういうものに左右される。勝つと限らないのは戦争と同じである。「予防医学」ということばに、医師が自分を訴訟から守るという意味があるのも道理である。告知もその含みがある。医師の精神的負担を軽くするところは「裁判員」制度に似ている。(本書p82~)
私は、「医療行為」を「教育実践」とか「カウンセリング臨床」に置き換え、教師・カウンセラーも同じと考えて読んでいる。
「教育に王道がない」
「カウンセリングに王道がない」
と読み替え、そこから、教師・カウンセラーの真摯な学びが始まることを期待したい。
闘病という考え方もあるが、「闘う」といって気負い立つと、交感神経系の活動性が高まりすぎる嫌いがある。「ガンも身のうち」という見方もどこかにあってよいように思う。実際、多くのガン細胞が日々生まれては消えているからだ。
(本書p86~)
精神科医の随筆は、教育やカウンセリングに従事する者にとっても示唆に富んだ知見が興味深い。
多くの精神科医の著作の中でも、私が特に注目しているのは、中井久夫の著書である。
先日、中央図書館から次の一冊を借りて読んでいる。
本書を読むのは三回目になる。
『臨床瑣談』中井久夫著みすず書房
2008年8月22日発行
広辞苑によると、「瑣談」とは、「こまごました、つまらない話」とある。
中井は本書の中で、「( 臨床瑣談)とは、臨床経験で味わったちょっとした物語というほどの意味」と述べている。
本書からの【落穂拾い】
私の診断学は臨床と議論と勉強との歳月をかけて「醸造」されたものであった。どれか一つの学派に拠ろうとしても、その内輪での議論をかいま見ると、どの学派にも安住できなかった。そのために、私は、ある見方によるとこであろうが、別の見方によればこうではあるまいか、というふうに考えてきた。
長きにわたり、教育現場でカウンセリングの学びを土台に据えて取り組んできた一教師としての私の経験と、この数年のスクールカウンセラーとしての経験から危惧していることの一つは、(診断名)や発達障害の定義に関する言葉が氾濫していることがたいへん気になっている。
例えば、1年生。
静かに机に坐っていられない児がいるとしよう。
そうすると、やれLDだとかやれADHDだとかと、括られてしまう現実がある。
一年生、それも人間は「生もの」であり、これからの成長が楽しみであろうはずなのに、取り組む大人側(教師)の勉強は棚上げにして、(診断名)や(定義)で括ろうとする傾向がこの数年顕著になったように感じている。
臨床家にとって一番大事なことは、サポートできるような力を身につける学びを第一にすべきなのに、(診断名)や(定義)を口にして何も出来ない大人が多くなっている教育現場・臨床現場が本当に心配である。