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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

裁判員制度と精神鑑定ー医事高裁の必要性

2020年01月28日 22時49分18秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 裁判員裁判死刑判決が出た事件で、控訴審で破棄、無期懲役となったケースが7件あるそうだ。そのうち5件は「量刑」をめぐる判断で、いずれも最高裁で無期懲役が確定している。一方、最近になって2例続けて「心神耗弱」を認めて一審死刑判決を無期懲役に減刑する判決が出た。2020年1月27日に大阪高裁は「淡路島5人殺害事件」の被告に死刑判決を破棄して無期懲役を宣告した。もう一つは2019年12月5日に東京高裁で出た「熊谷6人連続殺害事件」のペルー人被告の裁判である。
(淡路島連続殺害事件を報じるテレビ番組)
 日本は「国民が死刑を判断する世界唯一の国」である。ヨーロッパ各国にも「参審員制度」がある国があるが死刑制度は廃止されている。アメリカは州によって死刑制度があったりなかったりするが、「陪審員制度」のため「有罪無罪の判断」だけを行い「量刑」には関わらない。もちろん重大事件で有罪を認定すれば、事実上死刑判決につながるということはあるが、死刑判決そのものを決定するわけではない。その他の死刑制度がある国では、国民の司法参加制度がないことが多い。

 国民を抽選で選んで死刑判決が予測できる裁判に関わらせるというのは、ちょっと世界の常識では考えられない「残酷」な制度だと思う。だから裁判員制度はおかしいという人もいるが、おかしいのは死刑制度の方だ。裁判員制度を導入するなら、死刑を廃止するべきだったのだ。そのことはともかく、裁判員裁判の判決が上級審で破棄されると、マスコミでは「市民感覚とずれている」などと評することがある。しかし「心神耗弱」の場合減刑するというのは、法律で決まっていることだ。「市民感覚」の方が現行法とずれていると言うべきだろう。
(熊谷連続殺害事件を報じるテレビ番組)
 熊谷の事件も淡路島の事件も大変悲惨な事件だった。犯人性に疑問はなく、精神鑑定で責任能力が認められれば、今までの日本の判例に従う限り死刑判決は避けられない。争点は「責任能力の有無」だけと言っていいだろう。どちらの事件も、あまり詳しく覚えているわけではないものの、当初から「犯人」の言動には不可解なものがあった。報道で見ている限りでは、心神喪失心神耗弱の可能性は高そうに思えた。そして僕が思うに、その判断は裁判員が行うべきものなのか

 「事実認定」あるいは「量刑」の判断は、時にズレがあり得るとしても「市民感覚」を生かせるだろう。だけど、精神鑑定の判断に必要なものは「市民感覚」じゃなくて「専門的知見」だろう。裁判官ならば今までの経験もあるだろうし、判例も知ってるだろう。しかし、特に精神疾患に知識を持たない一般人を集めて、精神鑑定の中味を判断しようというのは無理がある。例えば発熱や咳がある人が「インフルエンザ」か「ただの風邪」か、はたまた現在問題の「新型コロナウィルス」なのか、「市民感覚」で判断するもんじゃない。医師による検査こそが必要であり、その結果も医師が判断するべきものだ。

 もっとも精神疾患の場合、なかなか難しい問題もある。何しろ医者の間でも見解が食い違うことも多い。鑑定の場合だけじゃなく、一般の治療でも医者で判断が違うことがある。ウィルス等で発症する病ではなく、症状も様々である。さらに「心神喪失」「心神耗弱(こうじゃく)」という概念も法律の中にしかない。統合失調症であっても、人によって様々なレベルや症例があり、どうなると「心神喪失」と判断でき、ある場合は「心神耗弱」、どういう場合は「責任能力あり」なのか、その境目の見極めは素人では判断できない。さらに「人格障害」の場合は「性格に偏りがあるが責任能力あり」とされる。

 その判断が死刑か無期かを分けるわけだが、それは裁判員には難しいと思う。いろいろ言えるだろうが、責任を持った判断は下しにくい。じゃあ、どうすればいいんだろうか。一つは日本も「陪審員制度」に変える、つまり「有罪か無罪か」だけを判断する。そうすれば量刑判断も要らなくなる。その方がいいんじゃないだろうか。しかし、多くの事件では有罪無罪の判断は一回の審議で済んでしまいそうだ。本人が最初に認めれば、即有罪認定となって、冤罪も起きやすくなる。量刑を決めるためには、「情状」の審理をする必要がある。だから何故事件が起きたかをある程度明らかにすることも出来る。 

 だから裁判員と陪審員では一長一短あることになる。もう一つの論点として、そもそも医療をめぐる裁判が刑事、民事含めて非常に多いという現状をどうすればいいかという問題がある。高齢化がさらに進み、認知症をめぐる裁判もさらに多くなるだろう。国民だけでなく、裁判官も医者ではない。そうなると医学の専門家を交えた特別の裁判所を設けたほうがいいのかもしれない。東京高裁に「知的財産高裁」が設置されて、知財問題の事件は控訴審段階で東京高裁で担当することになっている。

 同じように医療問題の判断には、東京高裁(だけじゃ足りないかもしれないから大阪高裁も必要かも)に「医事高裁」を設置し、医学者も特別裁判官として採用する。医学的判断が必要になった場合、一審をそこで中断して医学的争点に限って医事高裁に判断を委ねる。そこでの審議を経て、一審裁判を再開する。例えばそんなやり方である。再審事件で鑑定をめぐって争う場合も医事高裁で医学判断を行う。民事訴訟で病院を訴えているような場合も、医学的判断は医事高裁で行う。もちろんその判断に不満があれば、さらに最高裁で争うことが出来る。医学者にもいろんな人がいるから、誰を選ぶかで問題もあると思うが、シロウトがやるよりも間違いが少ないような気がする。
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死刑をなくそう市民会議設立集会

2019年08月31日 22時43分20秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「死刑をなくそう市民会議」という会が出来て、その設立集会が開催された。(明治大学リバティホール)「死刑廃止」というのは、今でもなんとかしたいと思っている残された数少ないテーマだ。(他はずいぶん諦めてしまった。)だから時々は集会にも行きたいと思ってる。今度は新しい動きだし、リバティホールは行きやすいから出かけてきた。カメラを持って行くつもりが、めんどくさいからスマホで撮ればいいやと思って、今度はスマホも忘れてしまった。年に数回はやってしまう。そこで写真を検索したら、載ってたので借りることにする。よく見ると自分も写っているではないか。

 開会の辞が民主党政権時代に第88代法務大臣を務めた平岡秀夫氏。その後、前日弁連会長中本和洋氏による講演「私と死刑問題」。日弁連(日本弁護士連合会)は「2020年までの死刑廃止」を決議している。しかし直近の参議院選挙でも、死刑廃止を主張する政党など全然ないんだから、もう無理に決まってる。(もともと無理な目標だ。)日弁連の中でも様々な議論があったというが、「人権」を掲げる弁護士には通じても、日本では「死刑廃止」はなかなか浸透しないテーマである。

 続くシンポジウムでは、毎日新聞記者の長野宏美氏(元プロテニス選手)のアメリカの事例紹介が興味深かった。アメリカでは19州が死刑を廃止し、4州が死刑執行のモラトリアム宣言(執行停止)を行っている。(2016年に死刑を執行したのは5州だけ。)しかし、死刑制度をめぐっても共和党が賛成、民主党が反対と党派による分断が際立っている。会場で配布された日弁連の資料には、世界の状況が載っている。2016年12月現在、法律上の廃止国は111国事実上の廃止国は30国(法律上は残っているが、10年以上執行のない国のこと)、存置国は57国である。国際的な状況はもうはっきりしている。

 この問題で必ず語られるのが「被害者感情」である。シンポジウムには今回、片山徒有(ただあり)氏が参加していた。1997年に8歳の次男がダンプカーにひかれて亡くなった「犯罪被害者」である。その後、被害者が刑事裁判の情報を得られない仕組みに関して問題提起を続け、制度が変わるきっかけとなった。被害者として刑事裁判を考える中で、死刑制度への問題意識も持つようになったらしい。深い発言が多かったが、声が小さくて僕には判らないところも多かった。またカトリックとして「死刑を止めよう宗教者ネットワーク」の柳川朋毅氏が加わり、司会を弁護士の船澤弘行氏。

 休憩後に神田香織氏の講談をはさみ、中山千夏さんや玉光順正(元東本願寺教学部長)、金山明生(明治大名誉教授)両氏による「鼎談」が行われた。そこで中山千夏が述べたが、80年に参議院に当選以後ずっと死刑廃止を言ってるが、ずっと同じ議論をしてる。全くその通りで、国家による殺人冤罪誤判被害者感情という問題をめぐって論じている。通じる人にはすぐ通じるが、通じない人には全然届かない。もちろん国も全然情報を広く知らせる考えはないから、皆が世界情勢を知らないままである。

 国民の多くは、何となく死刑は当然あると思っている。「人を殺したら死刑でしょ」なんて言って終わりにする人が結構いる。しかし、「人を殺してもほとんどの場合は死刑にならない」ことを知っているのかどうか。「平成最後」とか「令和初」とか、けっこう若い人でも浮かれてようだから、結局日本人は「国家」を相対化出来ずに生きているんだろうか。オウム真理教事件や「北朝鮮問題」、小泉内閣の「構造改革」などを通して、国家依存、過罰感情の社会になってしまった感じだ。

 性的少数派への問題意識はここ数年で大きく変わったように思う。だから、僕は死刑制度に関しても世の人の認識が大きく変わる瞬間もあるだろうと思う。中国やイランの死刑制度廃止はものすごく難しいだろうが、世界のほとんどが死刑を廃止する時代に日本だけが毎年執行を続けるおかしさが永遠に続くとは思えない。だが、そのための道筋が僕にはまだよく判らない。国会議員の状況は帰って悪くなってしまっている。国会でもう少し議論出来るようにするのも緊急の課題だろう。でも「集票」にマイナスと思うのか、声を挙げる人が少ない。そんな状況が変わらないといけないんだけど。
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大崎事件再審取り消しー信じがたい最高裁決定

2019年06月28日 22時54分51秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 大崎事件の再審を取り消す決定を最高裁が出した。そのニュースを見て「あり得ない」と思ったが、現にある以上「信じがたい」と表現することにしたい。1979年に鹿児島県大崎町で死体が見つかり、その長兄、次兄、続いて次兄の子、長兄の妻が殺人罪で逮捕、起訴された。この死亡が殺人だったかどうかに争いがある。長兄の妻が主犯とされ、懲役10年の判決が確定した。この長兄の妻を除く三人は、知的障害があるとされ、「自白」も変転している。長兄の妻は一貫して無実を主張し、一度も「自白」していない。1990年に満期で出所し、それ以後再審を請求し続けている。
 (再審取り消しを伝えるテレビ番組)
 第1次再審請求では、一審の鹿児島地裁は認めたが二審で取り消された。第2次再審請求は一回も認められず、第3次再審請求で2017年に鹿児島地裁が再審を決定し、福岡高裁宮崎支部も再審を支持した。再審は「無罪(またはより軽い罪)を言い渡す」「新しい」「明らかな」証拠が必要である。しかし、この事件では、もともと「自白」していないんだから「自白の矛盾」もない。「共犯者の供述」に寄りかかる有罪判決なので、物証を新しく「DNA型鑑定」することもできない。

 今回弁護側は新たに二つの新鑑定を提出した。その一つが写真に基づく死因の新鑑定で、そもそも殺人じゃない可能性を指摘した。一審、二審はその新鑑定に証拠価値を認めたが、最高裁は証拠価値は低いとした。最高裁は「証拠調べ」をせず、書面審査が中心となるが、普通の事件だったら最高裁が二審の判断を変える場合は「弁論を開かなければならない」と決まっている。今回は「再審請求」であり、その具体的なやり方は法律で決まってない。しかし、一審、二審で認めた新鑑定を覆すんだったら、やはり鑑定人を呼んで鑑定の意味を問いただす必要があるんじゃないか。
 (取り消し決定に抗議する弁護団記者会見)
 どんなに最高裁が偉いとしても、事実調べを全くせずに再審請求を却下していいのか。法的に可能だとしても、事実上は「適正手続き違反」ではないのか。これまで今回のような最高裁で再審を取り消した例がない。反対に最高裁で再審に向けた判断をした例はある(財田川事件など)。その場合も、自分では判断せずに下級審に差し戻している。今回も新鑑定に疑問を持ったならば、自分で事実調べをしない以上は、下級審に差し戻す必要がある。

 今回の再審事件では請求人は一度も「自白」していない。刑務所内で模範囚だったため、仮釈放が決まりそうな場合でさえ、一度も「謝罪」せず仮釈放が認められなかった。もし本当は有罪だったとするなら、そんなことをわざわざするだろうか。懲役10年程度の事件だから、東京じゃ事件当時も誰も知らないだろう。無実じゃない人が、出所後の老後を全て再審に費やすようなことをするだろうか。多くの人が自分を振り返ってみれば、無実だったとしても仮釈放の誘惑に駆られて認めてしまうんじゃないか。

 今回の決定は、最高裁裁判官の判断基準が「自白」であることを示している。「供述弱者」の「自白」の危険性という問題意識がない。ずいぶん頭が古い。今どきそんな人が最高裁裁判官なのである。大崎事件そのものは、司法制度を揺るがすといったレベルの大事件ではない。だから大崎事件をひっくり返すために、最高裁裁判官が選ばれたわけではない。15人すべてが安倍首相によって任命された最高裁裁判官である。安保法制に違憲判決を出しそうもないといった選択基準はあるんじゃないか。そういう人は一般的に他のケースでも人権感覚が鈍いと言うことを示している。
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画期的な布川事件国賠判決

2019年05月28日 23時28分33秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2019年5月27日に、布川事件国賠訴訟の判決が東京地裁であった。この判決は非常に画期的なもので、その意義を簡単にまとめておきたい。布川事件は1967年に茨城県布川(ふかわ、現利根町)で起きた男性が殺された事件で、桜井昌司さん、杉山卓男さんが逮捕・起訴された。最高裁で無期懲役が確定したが、2011年に再審で無罪となった。杉山さんは2015年に亡くなっているが、桜井さんが国と県に国家賠償法に基づく賠償を求めていた。

 桜井さんは以前高校の授業で人権に関する講演を毎年お願いしていた。「明るい布川」と語って、真実は必ず勝つと力強く訴えていた。時には歌も歌って聞く者を引き込む魅力を持っている。再審判決は僕も傍聴に行ったものだ。(傍聴券に当たらず。)桜井さんは再審無罪後も多くの冤罪事件救援に全国を飛び回っている。映画「ショージとタカオ」や「獄友」にも、その様子が残されている。また本人のブログ「獄外記」で日々の活動の様子をうかがうことが出来る。

 桜井さんはブログで国賠訴訟は絶対勝てる、勝つというようなことを確信を持って書いていた。理由なく大言壮語する人じゃないから、訴訟の進行は優勢なんだろうとは思っていた。でも裁判は何が起こるか判らない。翌日の「優生保護法国賠訴訟」(強制不妊訴訟)の仙台地裁判決では、違憲と認めながら賠償は認められなかった。冤罪事件の場合、そもそも「無罪判決」が難しい。特にいったん確定した判決が「再審」で無罪になるのは、よく「ラクダが針の穴を通る」とまで言われる。「国家賠償」を求めて勝訴するというのは、それを遙かに上回る想像を絶するような難しさである。

 刑事裁判で無罪になった人は「刑事補償金」が支給される。冤罪で囚われていた日々についての「補償」である。「補償」と「賠償」は全然違う。国家賠償法は、その第1条で「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と書かれている。「故意」、つまり検察官、警察官が個人的憎しみからわざと冤罪を作り出すということは普通ないだろう。(まあ2018年に公開された某ミステリー映画はそういう筋になってたけど。)

 「故意」の立証は無理だから、「過失」の立証になる。しかし、交通事故なんかでも「過失」をめぐる認定は難しいものだ。多くの事故では両方とも悪いことが多いが、その過失の割合を決めるのは大変だ。ましてや冤罪事件の捜査に関して、誰にどのような過失があったのか、それを裁判で訴えるのはすごく大変なのは想像できる。冤罪事件で国賠訴訟を起こした例はあまり多くない。

 それは1952年に起きた北海道の芦別事件の国賠訴訟敗訴の影響が大きい。国鉄の線路が爆破され、共産党員が起訴された事件で、1962年に2審で無罪となった。その後国賠訴訟を起こし、一審福島重雄裁判長は原告勝訴の判決を出した。(長沼ナイキ裁判で自衛隊違憲判決を出した裁判官。)ところが、高裁、最高裁で「公務員が職務上与えた損害は個人が責を負わない」という論理で賠償が否定された。交通事故で最高裁で無罪となった「遠藤事件」の国賠訴訟でも、1996年に東京地裁は芦別判決をもとに原告敗訴とした。(2003年最高裁で確定。遠藤事件はウィキペディアに解説あり。)

 長く苦しい冤罪との闘いが終わって、さらに国賠訴訟に打って出る人は少ない。布川事件でも桜井さんしか訴訟を起こさなかった。遠藤事件など、もともと在宅起訴で一審も禁固6ヶ月執行猶予2年の事件である。それが最高裁で無罪になるまで、14年もかかった。その後さらに国賠訴訟を起こしたのは、お金が欲しいわけじゃなくて警察の不正を許せなかったのだ。無実の人間が捕まるんだから、誰かにミスがあったわけで、過失が認められて当然と思うだろう。しかし、警察が怪しいヤツを逮捕したのは当然、自白があったから起訴したのも当然、有罪の証拠は形式上そろっているから有罪判決も当然…そういう論理で行けば、どこにも「過失」がなくなる。結果的に間違いだったけど、ガマンしてね

 近年の事件では、鹿児島の志布志事件(選挙違反をねつ造した)は国と県の責任を認めた。富山県の氷見事件では国を除き県だけに責任を認めた。どういう意味かというと、警察官は地方公務員だから県に賠償責任があり、検察官は国家公務員だから国に賠償責任がある。志布志事件では検察官に「注意義務違反」を認めたが、氷見事件では検察官の責任を認めなかった。ところで、今回の布川事件国賠では国と県と双方の責任を認めている。無期懲役の殺人事件という重大事件捜査で、国の責任を認めたのはまさに画期的である。

 判決では警察の偽証を認めた。「(一本しか)ない」と証言していた捜査時の録音テープが他にも出てきた。知らないはずがないので「意図的偽証」である。(警官はよくやる。)これは「過失」というより「故意」に近い。もちろん「違法」である。検察官は「証拠開示請求に応じなかった」ことが裁判結果に大きな影響を与えたので「違法」とされた。これはまさに他の冤罪事件、再審請求に多大な影響を及ぼす「画期的判断」である。この検察、警察の「違法」がなければ、少なくとも2審の控訴審判決では無罪になっていたと判断したのである。

 ホントかな。絶対勝てると誰もが思うほど検察の証拠を崩しても、裁判官が勝手に(検察官も主張していない)理屈を持ち出してきて有罪にした事件なんか山のようにある。検察、警察が悪くても、裁判官がしっかりしてれば真相は見抜けたんじゃないだろうか。しかし、今まで裁判官が裁判官の「過失」を認めたことなんかない。そこは裁判で決着を付ける以上、難しいのである。だから、警察や検察がちゃんとしてたら、裁判官も無罪判決を出したはずじゃないですか、という論理で攻めるしかない。そして「証拠開示」があれば無罪だったはずという論理で勝利した。つまり「国が有罪証拠を隠していた」と言ってるのである。これは多くの冤罪事件に生きる判決で、国賠訴訟を起こした意味があったのだ。
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死刑廃止集会と「マラー/サド」観劇

2018年10月14日 22時51分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2018年10月13日(土)の記録。10月にも関わらず暑い日が続いていた。ようやく週末から涼しくなったが、ずっと曇っている。13日に「響かせあおう 死刑廃止の声」という死刑廃止の集会に行った。夜に国会前でキャンドル・アクションがあるということだったが、終了前に抜けてイタリア文化会館で精神障害者当事者による演劇「マラー/サド」を見に行った。

 10月10日は「世界死刑廃止デー」である。毎年その前後に死刑廃止の集会が開かれているが、ここしばらく行ってなかった。今年は袴田事件の再審却下オウム真理教死刑囚の大量処刑があったので、他のことに先がけて行こうと思っていた。アムネスティや日弁連、「袴田巌さんの再審を求める会」などのアピールに続き、安田好弘弁護士とジャーナリスト青木理氏の討論、ダースレイダーとDJオショウによる「Rapで歌う!死刑囚からあなたへ」と第一部は盛りだくさん。

 安田・青木対談は「オウム13人執行で時代はどう変わるか」と題されていたが、聞いていると「もうすでに変わっていた」ということかと思った。大きな反発もなく、それどころか大きな議論は何もなく、いつの間にか「そういうこともあったよね」になっていないか。これほどの大量処刑は明治末の大逆事件以来だというのに。麻原彰晃は「心神喪失」状態じゃなかったのか。法曹界ではそう思っている人がほとんどだというが、それなら「違法」な執行だったことになる。再審申請中、恩赦出願中の処刑は許されるのか。そんな議論がどこでも起きない。

 この集会に合わせて、「死刑囚による表現展」が開催される。「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」によるもので、今年が14回目。その公開選評が毎回第二部で、太田昌国氏の司会で、他に加賀乙彦池田浩士北川フラムの各氏が参加した。選考委員には他に香山リカ、川村湊、坂上香の3氏がいるが所用で欠席。それでも先の4人の顔ぶれは、知ってる人には超豪華である。別会場で絵画展が開かれていたが、死刑囚の描いた絵の澄明さにいつも驚かされる。

 選評会の冒頭で抜けてイタリア文化会館に向かった。集会の会場は星稜会館。ここは日比谷高校の同窓会が基になって作られたところで、日比谷高校の真裏。最寄り駅は永田町だが、実は初めてなので少し迷ってしまった。イタリア文化会館は九段下だから、地下鉄半蔵門線で2駅。これは雨じゃなけりゃ歩いていこうと思っていた。国会図書館や国立劇場など何度も来てるのに、どうもこの周辺は頭に入ってない。スマホを見ながら、国会図書館、最高裁、イギリス大使館、千鳥ヶ淵と歩いて、イタリア文化会館へ。ちょっと寒かったが、格好の散歩コースじゃないか。
 
 「マラー/サド」というのは、ドイツ人のペーター・ヴァイスの書いた戯曲「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」という恐ろしく長い名前の略称。これをイタリアのボローニャ市の実際の精神障害者たちが演じるというもの。イタリアで精神病院を廃止した「イタリア精神保健法」(バザーリア法)の制定40周年記念プログラムである。もちろんイタリア語による公演で、舞台上方に字幕が出た。無料公演で、満員だったのでキャンセル待ち登録をしておいたら数日前に入れるというメールが来た。

 1964年初上演で、1967年にはイギリスの有名な演出家ピーター・ブルックによって映画化された。日本では1968年に公開され、ベストテン5位に入っている。僕はその映画を学生時代にどこかで見て刺激を受けた。ジャン=ポール・マラーはフランス革命の指導者の一人で、ジャコバン派として恐怖政治を進めた。1893年にジロンド派を支持する女性、シャルロット・コルデーによって暗殺された。浴槽に入っているところを刺殺された姿はダヴィッドの絵に描かれ有名である。

 一方のマルキ・ド・サドはサディズムの語源となったことで知られる貴族作家だが、虐待や風俗破壊で何度となく刑務所や精神病院に入れられた。この劇は1808年、つまり暗殺事件の15年後にシャラントン精神病院で、その当時実際に入院させられていた(そして1814年にそこで亡くなる)サド侯爵が患者たちを演出して暗殺事件を再現するという趣向になっている。二重、三重の仕掛けをほどこして、革命と自由に関する対話がスリリングに繰り広げられる。マラーは革命と独裁を擁護し、サドは徹底した個人主義者としてマラーを批判する。

 基本的にはそういう構図の劇だが、今回は舞台が檻になっていて、始まる前の館長などのあいさつも鉄格子の向こうというのに驚く。その後もミュージカル仕立てで進み、皆の歌が素晴らしい。舞台奥には「革命万歳」「自由」といった字が書かれている。脚色・演出ナンニ・ガレッラとあるが、かなり脚色してあるように思う。1時間超で終わったけど、もっと長かったと思うし。様々な方向で演出が可能な劇なんだと思う。このボローニャ市の「アルテ・エ・サルーテ」という劇団の場合、明らかに「世界は変えられる」、イタリアでは精神保健のあり方を大きく変えられた、劇中の精神病院はこの国にはもうないというメッセージを感じた。

 上演後に観客との対話もあったのだが、1時からの集会に始まって7時過ぎとなると、もう疲れてしまった。今日は終わり。何を食べるか決めかねて、つい神保町まで歩いてしまってカレーを食べて帰った。さすがにテーマが重いので疲れたなと思った日だった。もうブログ書く元気はないと思って翌日に延ばした次第。「マラー/サド」の提出したテーマは今も生きていると思った。それは死刑問題にも共通すると思うし、インクルージョン(inclusion)ということを考えた一日だった。
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真犯人隠ぺい? 今市事件のトンデモ判決

2018年08月04日 23時31分54秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 東京高裁で8月3日に「栃木女児殺害事件」(「今市事件」)の控訴審判決があった。「原判決を破棄。被告人を無期懲役に処する。」という、不可思議極まる判決だった。控訴審が自白に寄りかかり過ぎた一審判決を破棄するのは当然だが、その後で自判して有罪にしていいのか。控訴審判決はあまりにもおかしいと考えるので、ここでまとまって書いておきたい。

 控訴審では、殺人事件で一番重大な殺害時間と殺害場所に関して重大な訴因変更があった。殺害時間が「被害者が行方不明になってから、遺体が発見されるまでのいつか」、殺害場所が「栃木県か茨城県またはその周辺」って、冗談としか思えない。これじゃ、そもそも起訴できたかどうかも怪しい。「自白」に基づいた検察の立証活動は破たんした。それならば「証拠不十分」で、「疑わしきは被告人の利益に」ではないのか。刑事裁判としておかしいのではないか。

 一審段階では長時間の取り調べ中の録画をもとに「自白に信用性がある」と認定した。自白だけで有罪にするのは憲法違反であると僕はその時に批判した。今回「自白画像で有罪認定はできない」と判断したのは、当然正しい。しかし、この一審判決に対して弁護側は反証を続けてきたわけで、その結果検察側は訴因変更に追い込まれた。ところが、裁判所が訴因変更を受け入れ、状況証拠でも有罪認定できるというんだったら、一体被告・弁護側はどういう反証を行えばいいのか。試合開始後のルール変更じゃないのか。

 「被告人が母親に送った手紙」を有罪認定に使った判断も危険である。手紙で捜査側も知らなかった「秘密の暴露」があるなら別だが、「今回、自分で引き起こした事件、本当にごめんなさい。まちがった選択をしてしまった」という内容は、どうにでも解釈できるものだ。今までにも友人や家族、同房者への手紙などが有罪証拠に使われたことが何度もある。証拠がないときに、こういうことを言うのである。1970年の「大森勧銀事件」では、知人に対して事件を起こしたのは自分だと吹聴していた人が逮捕・起訴された。(一審無期懲役、2審で無罪、最高裁で無罪確定。)

 そもそも「母親への手紙」も「一種の自白」であり、それだけでは有罪証拠にしてはいけない。自由な環境で書いたものではなく、獄中で書かされたものだ。お前が人殺しになって親が泣いてるぞ、一言お詫びの手紙を書けなどと言われるわけだ。獄中で精神的にも支配されているから、家族相手でも自由には書けない。今度の手紙も直接的には犯行には何も触れず、「まちがった選択」は「自白を強要された」とも取れる。むしろ「無罪心証」と評価出来るものではないか。

 弁護側はビニールテープに被告以外のDNA型が検出され、真犯人のものだと反証した。この鑑定に対し、裁判官は「捜査官に由来する可能性」として証拠価値を認めなかった。確かに裁判所の判断も一般論としてはあり得ることだが、この事件では違うと思う。実は捜査段階で、まさに捜査官のDNA型が検出されていた。それを犯人のものだと追いかけていたら、実はミウチのものだった。捜査中の不手際で付いてしまったのである。

 だからテープのDNAも捜査官のものと思うかもしれない。しかしその当時、証拠物に触った可能性のある捜査官のDNA型の鑑定を行ったはずだ。そうじゃないと、実際に捜査官のものだったと判らない。だから未提出の捜査官鑑定書を確認すれば、テープのDNAも捜査官のものと検察側は証明できる。それを行っていない以上、この事件に関してはテープに付いたDNAは確かに真犯人の可能性が高いと思う。テープは普通個別に包装されているから、お店の人のものということもないだろう。(なお、問題の捜査官はアリバイがあったから犯人ではない。)

 この事件に関しては多くの未提出証拠が存在する。「捜査官のDNA鑑定結果」もそうだし、「取り調べテープの全容」もある。さらに「Nシステムの設置場所」が大問題。被告人が疑われたのは、遺体遺棄時間に宇都宮から深夜に出て早朝に帰る車が確認されたからだ。ここで疑問なのは、「深夜に出ていく車」は被害者(生死は不明だが)を乗せているわけだから、絶対に警察の目に触れてはいけないのに、なぜNシステムがる大きな通りを通ったのかである。

 もちろん、そんなシステムの存在は意識しなかっただけかもしれない。しかし、それならなぜ前日の「犯行へ向かう道」がNシステムで検知されなかったのか。被害少女は「自白」ではその日に見かけたことになっている。その日の車は犯罪を犯すと知らずに出かけたのである。その日こそNシステムで捕捉できないとおかしい。だが当時のNシステムの設置場所と捜査状況は公表されていない。だから、何故犯行日のドライブが証明できないのかも判らない。

 僕も「誘拐」「死体遺棄」双方の行き帰り4回全部で被告の車が確認できたのなら、それはかなり強力な「状況証拠」になると思う。でも一番大事な犯行日の方が行きも帰りも出てこないのは不自然である。以下は想像で書くことだが、多分栃木県には他県に先がけて多くのNシステムが整備されていたと思う。「那須御用邸」があるから、警察庁も優先して整備したはずだ。そして日光も関東最大の国際的観光地であり、「旧田母沢御用邸記念公園」がある。警備の対象にはなってるはずで、日光付近には多くのNシステムがあったに決まってる。証拠を開示するべきだ。

 今市事件が起きた2005年12月1日の直前に、別の誘拐殺人事件が起こっていた。11月22日に広島市安芸区で小学校一年の女児が殺害された事件である。犯人はペルー人だった。当時から僕が思ったのは「今市事件は広島事件に刺激されたものではないか」ということだ。そしてさらに言えば、「またあの犯人なのではないか」ということである。その時点では足利事件の菅家正和さんの無実は晴らされてはいなかった。しかし、栃木・群馬県で未解決の誘拐事件が多発していることは一部で知られていた。今は清水潔「殺人犯はここにいる」で知られる。足利・太田あたりから近いとまでは言えないが、車なら1時間もかからない。

 なんだか今回の判決のあまりにも不自然な事実認定を見ると、単なる誤判というレベルを超えて、事件の真相をあえて隠すべき国家的理由があるのではないかとまで勘ぐってしまうのだ。思えば6月11日、袴田事件における東京高裁の再審破棄決定も理由付けが不自然でおかしかった。だけど、今になって考えてみると、死刑再審が6月に認められていたらどうだったろう。オウム真理教事件の再審請求中の死刑囚は執行が難しかったのではないか。東京高裁はそのような「国家的要請」に応えたのではないだろうか。東京高裁の「忖度」判決があるのではないか。
*2020年3月4日付で、最高裁は上告を棄却した。理由は「上告理由に当たらない」というもので、疑問に答えるものではなかった。
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オウム「B級戦犯」の死刑執行

2018年07月26日 22時42分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件では13人の死刑が確定していた。そのうち教祖の麻原彰晃(松本智津夫)など7人の死刑が6日に執行された。残る6人はどうなるかと思っていたら、26日にすべて執行されてしまった。これは僕には信じられなかった。「共犯者は同時に執行するのが通例」という人もいる。「残されて執行に怯える日々は残酷」という人もいる。しかし、1年ではなく、1月の間に13人の死刑を執行するとは、現在の「先進国」の例としては考えられないと思っていた。

 「現場」にかける負担が大きすぎるんじゃないかと思っていたのである。命令する法相の方も普通なら大変だ。大体の内閣で、通常国会終了後の夏から秋に内閣改造がある。今の第4次安倍内閣は、2017年10月の総選挙後の11月1日に成立した。今年は9月に自民党総裁選があるから、常識的にはその後の新総裁(恐らく安倍総裁)が決まるまでは今のままだろう。7人を執行したことで、上川陽子法相の役目はおしまい。次の執行は次の法相かと思っていた。

 執行場所を見てみると、6日の執行では東京=3人(松本、土谷、遠藤)、大阪=2人(井上、新実)、福岡=1人(早川)、広島=1人(中川)だった。26日の執行では、東京=3人(端本、豊田、広瀬)、名古屋=2人(岡崎、横山)、仙台=1人(林)である。大阪と名古屋は、両日に分かれているが、ともに同じ日に二人が執行されている。これは恐らく移送の時点で死刑執行の順番が決められていたということだろう。(なお「懲役」囚は「刑務所」で服役するが、死刑囚の場合は執行されるのが「刑」なので、刑の確定後も拘置所で拘置されている。)

 以上で見たように、東京拘置所では3週間の間に6人の執行があった。刑務官は命令が下れば従わざるを得ない立場だが、いくらなんでもこれでは精神的負担が大きすぎるのではないだろうか。どんなに重い罪を犯した重罪犯と言っても、今では長い間拘束されていた弱い人間にすぎない。死刑は執行する側の負担も重い。何でも特別手当が出るらしいが、お金の問題じゃない。ホンネを言うなら、誰かの答弁じゃないけど「それはいくら何でも、いくら何でもご容赦ください」と言いたいんじゃなかろうか。しかし、森友・加計問題を見るまでもなく、「現場」に苦労を押し付けてなんとも思わない安倍内閣である。一月の間にまた大量執行があることも予想しておくべきだった。

 今回執行された死刑囚は、オウム真理教事件では「B級戦犯」的な存在である。ドイツおよび日本に対する戦争犯罪裁判では、A級が「平和に対する罪」、つまり戦争そのものを起こした戦争責任が問われた。一方、B級は「通常の戦争犯罪」である。それをオウム事件に当てはめれば、事件全体の首謀者、立案者的立場だった教祖、幹部クラスがA級、命令されて従っただけの兵士レベルがB級と言ってもいいだろう。もちろん「命令されて従っただけ」でも刑事責任はある。それは当然だけど、しかし自ずから刑罰には軽重がある。今回執行されたメンバーの中には、恩赦で罪一等を減じてもいい死刑囚もいたように思う。

 オウム真理教事件そのものは別に書きたいと思いつつ、なかなか気持ちがまとまらない。「これでオウム真理教事件の法手続きはすべて終了した」などとマスコミは報じている。何を勘違いしてるんだろうか。無期懲役囚が懲役刑を務めている間は、「法手続き」が続いているじゃないか。無期懲役は終身刑じゃないけど、現在は事実上果てしなく終身刑化が進行している。それはともかく、オウム事件の懲役囚がいる間は事件が続いている。

 「自首」が認められて無期懲役になった林郁夫の場合、地下鉄サリン事件で二人の死者と多くの重傷者を出している。一方「自首」しても軽減されなかった岡崎一明、地下鉄サリン事件で死者が出なかった横山真人、坂本弁護士、松本サリンで裁判所も「従属的立場」と認めた端本悟の場合などを考える合わせると、重大犯罪に関わったと言っても刑罰の軽重を人間が決定できるのかと思う。

 今回のような大量の死刑執行を見ると、安倍内閣は「外からの批判に聞く耳を持たない」ということがよく判る。アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、皆同じだ。あるいはトルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、カンボジアのフン・セン首相…。そう言えば同じようなタイプの指導者が増えている。安倍首相の「お友達」が多い。後のアメリカ大統領、テキサス州知事のジョージ・ブッシュは大量の死刑を執行したことで知られる。(その中には国際人権規約で禁じられた犯行時未成年の死刑囚も含まれる。)ブッシュがイラク戦争を始めることを思えば、やはり死刑制度と戦争は深い関係があると思う。
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オウム死刑囚、刑執行の問題点を考える

2018年07月17日 20時20分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 時々つながる不思議なネット接続、つながってない間にワールドカップは終わってしまった。日本代表に関してはもっと書きたいことがあったが、もういいかな。西日本の集中豪雨に関しては、また後で。まずはオウム真理教の死刑執行の問題点について書きたい。

 オウム真理教幹部7名の死刑が執行されてだいぶ経ったけれど、僕にはいくつもの疑問点がある。日本政府は死刑制度存続に固執し、21世紀に入ってからも毎年執行してきた。執行の人数や順番は秘密とされ、誰がいつ執行されるのかはよく判らない。大まかには死刑の確定時期をもとに、再審、恩赦の請求の有無などによって判断されるが、今までにもまだ順番にならないはずの死刑囚が執行されたことも多い。

 その意味では、今回のオウム真理教の場合も、一般的な日本政府の「死刑執行に関しては秘密にする」方針から外れているわけじゃない。だから「疑問」なんてないという考え方もあるだろう。単に共犯者の裁判が終わって順番が来ただけだと。だが、7名もの大量執行の人数はどうして決まったのか麻原彰晃(松本智津夫)の遺体はなぜ拘置所側が火葬したのか当日朝の大々的な報道ぶり(僕は見てないが)は何故可能になったのか。それらは僕にとって疑問である。

 死刑の執行命令は7月3日(火)に上川陽子法相が署名した。実際の執行は6日(金)で、その前日夜に「自民党酒場」が開かれていた。5日夜から西日本の集中豪雨が激しくなっていて、(麻原処刑後の)6日から各地で大きな被害を出した。そんなときに「宴会」かと批判されているが、この席に上川法相が出席していた。それも普通だったら、死刑執行を命じている最中に宴席に出るだろうかと思う。部下が明日の死刑執行を控えているんだから、上司が飲んでる場合じゃないだろう

 オウム真理教事件は普通、「狂信的なカルト宗教によるテロ事件」と思われている。それに間違いないけれど、オウムの主観ではちょっと違うんじゃないか。普通のテロ事件の場合、「自分でもテロと判っている」。2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ」の場合、実行犯は自分も死ぬことが判っていた。だから、その事件がどういう結果をもたらすかは、後に残る仲間に託す問題である。自分がアメリカ大統領になって世界を変えるつもりなど最初からないわけである。

 一方、オウム真理教の場合、あまりにもチャチで拙劣な団体だったから、誰も本気にはしなかったけれど、日本政府に戦争を仕掛けているという意識だったのではないか。だから「自爆テロ」はしない。自分たちは国家に準じた組織を持ち、既成の日本政府にとって代わる存在なのだから。もともとオウム事件は「内乱罪」で裁くべきなのではないかという主張があった。麻原彰晃の主観にあっては、それは確かに「内乱」だったのかもしれない。日本政府もそれを判っていて、一種の「国事犯」と考えたのではないだろうか。

 現在の日本の憲法では、特別法廷は作れない。オウムも「単なる殺人犯」以上のものではなく、現行の法体系のもとで死刑判決を受けた。だが当時はオウム信徒は何か理由を付けて「微罪逮捕」された。日本は事実上の「緊急事態宣言」のもとにあった。当時を知る人なら、そもそもそれを覚えているだろう。だから、事実上の「オウム特別法廷」で裁かれたとも言える。そこでは事前に決められていたかのように、地下鉄サリン事件実行犯は死刑、送迎役は無期懲役になっている。刑事責任上、それは当然とも見えるけれど、何だかどこかで基準があったような気もする

 そういうことを考え合わせてみると、今回の死刑執行の疑問が解けてくる。これは一種の「内乱勝利宣言」だったのではないか。だから事前に執行をリークして、一部のテレビは刑務官が出勤してくるところを映像で撮影した。そんなことは事前に知らなきゃできない。そして麻原執行をいつもの死刑執行よりずっと早くリークして、大々的な報道を可能にした。執行されたのが7人だったというのは、たまたま幹部級の数だったという以上に、「極東軍事裁判」(東京裁判)の死刑執行数を意識していたのではないかと思う。占領下の戦犯裁判の「屈辱」を晴らすことを念願とする安倍政権だから、きっと同数の処刑を考えたのではないか。

 麻原彰晃(松本智津夫)の遺体をめぐる問題はもっと深刻である。拘置所側は4女へ渡すという「遺志」があったとする。でもこの4女は昨年、家裁に父との相続関係を断つ申し立てを行い認められた。相続は「財産」「負債」だけではなく、遺体(遺骨)、遺品も「相続」者が受け継ぐべきものだ。死者の財産を受け継ぐ代わりに、葬祭も担当するのが普通だろう。だから相続権を放棄した人には、もともと遺体、遺骨の引き取り資格はないはずだ。他に遺族がないのならともかく、引き取りを申し出ている他の遺族がいるにもかかわらず、拘置所側で火葬したのは何故か。

 それが「故人の遺志」だということになっているが、拘置所側の説明はあいまいだ。口頭で表示があったというが、後々揉めないためには書面による指示が必要だったと思う。それは可能なはずだ。「心神喪失」状態なら死刑は執行できないんだから、執行時は心身喪失じゃなかった。だったら書面で指示できるはずだ。僕が想像するには、多分麻原彰晃は執行時にはっきりとした意思を明かさなかったのではないか。拘置所側が4女でいいかと問いかけ、はっきりしないまま「いいんだな」となったのかもしれない。

 麻原が自覚して4女を指定したとは考えにくい。相続を断った子どもに遺体を渡すとは普通理解できない。拘置所側が「誘導」しないとそうはならないと思う。そう思われないためには、本人の自筆の書面さえあればいい。心身喪失じゃないんだったら、可能なはずである。でもそれはないというなら、逆に考えて「心神喪失」状態にあったと疑われても仕方ない。4女指定という中に、僕は心神喪失状態の死刑囚を無理やり執行してしまったという事態を想定してしまう。

 その結果、「麻原遺体の神格化を避ける」の名目で、4女側が遺骨を海に散骨すると言われている。遺骨の「奪還」「襲撃」が予想されるとして、国家がやってくれと弁護士が要請している。これはまずいんじゃないか。それでは「国葬」である。引き取りたいという遺族がいたら、引き渡せば良かったのではないかと思う。それが神格化に利用されたとしても、そのことが「可視化」された方がいい。見えない「伝説」になるより、ずっといいと思う。

 「日本国対オウム真理教」の戦争だったら、当然のことだが僕は日本国の側に立っている。しかし、その日本国が現行の法規を守らないで、無理やり死刑を執行したように思える。それでは「法治」ではなくなる。安倍政権はいろいろな場面で「立憲主義」「法治主義」をないがしろにしてきた。また原発など多くの問題で「世界の情勢」を無視してきた。そういう安倍政権ならではの死刑執行だった。政治利用を考えたところに、集中豪雨が重なった。その日の夜のニュースでは、死刑執行は二番目のニュースだった。もう「麻原死刑の日から大雨が続いた」という印象しか残らない。
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「予告された殺人」、オウム真理教事件の死刑執行

2018年07月06日 23時11分06秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 朝9時前後にスマホでニュースを見たら、「オウム真理教、松本智津夫死刑囚を死刑執行」とトップに出ていた。いや、今か。通常国会が長く延長されたので、ついワールドカップと天気(関東は猛暑、西日本は台風と集中豪雨)に気が取られていた。去年は7月13日だったが、3年前の上川陽子法相前任時の執行は6月25日だった。国会でも死刑に関心がある議員がどんどん引退、落選したので、会期内でも気にしないのだろう。法相は3日前に署名したと語っている。7月3日だったら、ワールドカップで日本が敗退したことで、諸外国の動向を気にしなくてよくなったのか。

 この問題に関しては先に「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①」(5.28)、「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②」(5.29)を書いた。近年6月に死刑執行がある年もあるので、5月中に書いておかなくてはと思ったのである。もちろんそれで何か現実的な影響を与えられると考えたわけではない。これは国家的な「予告された殺人」なのだから。(ガブリエル・ガルシア=マルケスの傑作「予告された殺人の記録」をどうしても思い出すので、言葉を借りた。)

 今回は麻原彰晃(松本智津夫)の他、幹部クラスの6人を一斉に執行した。7人同時というのは、現代の世界でちょっと考えられない大量の執行である。しかも今回執行された中には、再審請求を続けていた人がかなりいる。再審にあたる事由があるのかは僕が判断する材料がない。今回のような死刑執行を見ると、やはり「死刑制度を政治的に利用している」気がする。「平成の事件は平成のうちに」などと検察幹部も語っているという。天皇の交代や東京五輪のある年には執行できないということらしいけど、僕には全く理解できない。

 今回の執行に関しては、先に書いたことと重なるけれど、一番大事なことが判らない。「麻原彰晃は心神喪失なんじゃないか」という疑問である。僕は心神喪失だとは言わない。判るわけがない。でも、常識的に考えて「心神喪失の疑い」があるのは間違いない。その疑いを法務省が国民に向かって晴らしているとは思えない。法務省が執行するんだから、刑事訴訟法に違反することをするはずがないということなんだろう。お上が判断することに従えばいいんだということだろう。

 しかし死刑執行は国民の税金で行われる。国家の名のもとに「合法的な殺人」を認めるものだ。しかもオウム真理教のテロ事件は、世界各国に衝撃を与えた事件である。各死刑囚の具体的な心身の状態、執行時のようす、再審請求中の死刑囚を執行していいのかなどを国民に説明する必要がある。上川法相の記者会見は事実を報告するだけで、肝心の問題に答えていない。さらに、今までの死刑執行時と比べて、ことさら早い時間帯に麻原の執行だけが報道された。どういう経過か、そこも疑問である。死刑制度全体の議論も大切だけど、オウム事件個別の事情に沿って、まず多くの疑問を解明していかないといけない。

 「もっと真相を話して欲しかった」という人もいるが、そういうことをしたくない、されても困るということで死刑制度があり、死刑執行が行われる。「教祖の死刑で神格化が進む」「関連教団の反発や復讐テロが心配」なんて今さら言う人もいる。それが「死刑制度を持つ国のリスク」なのであって、そんなことをいうなら死刑制度を廃止すればいいのだ。僕の理解では、選挙敗北を機に「陰謀史観」に囚われ、「秘密の大量破壊兵器」を持った時に「軍事組織化」が進行した。

 そのようなテロ事件が社会全体を「陰謀史観化」したと思う。日本やアメリカの現政権のあり方は、「オウム」や「9・11」が生み出したものではないだろうか。ニーチェのいうところの「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」という言葉を思い出す。(なお、「オーム事件」なんて書いている人があまりにも多いのでビックリした。)
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ワールドカップ16強、死刑があるのは日本だけ!

2018年06月29日 23時12分49秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 サッカーのワールドカップ・ロシア大会。1次リーグが終了して決勝トーナメントに進む16チームが決定した。日本代表は前評判がとても低くて、僕もテストマッチを見た感じではとても1次リーグ突破は難しいだろうと思っていた。しかし、第1試合のコロンビア戦に勝利するなど予想を上回る活躍で、H組を2位通過した。最後のポーランド戦終盤の「負けを受けいれて2位通過ねらい」の監督の戦術をどう思うか。いろんな考え方があると思うけど、それはまた別の機会に。

 前回「死刑冤罪」の問題を書いたので、ここでは「16強で死刑存置国は日本だけである」ということを書いておきたいと思う。サッカーと死刑制度に何か関係があるのか。いや、それは特に強い関係はないだろうけど、「世界の情勢」を知っておくべきだという意味ではそんな指摘も意味がないわけじゃないと思う。H組最終戦、セネガルがコロンビアに最後に追いついていたとしたら…。その時は実は「16強、全部死刑廃止国」という記事を書こうかと思っていた。そう、アフリカのセネガルも、南アメリカのコロンビアも、もちろんポーランドも皆死刑廃止国。H組で死刑制度があるのはもともと日本だけだったのである。そういう現実を日本人は知っているか?
 
 (世界の死刑状況地図。2010年段階。濃青が完全廃止、薄青が事実上の廃止国)
 
 最後の戦術の評価はともかく、日本が決勝トーナメントに進出したことはすごい。別にセネガル進出を望んでたわけではないけど、セネガルが死刑廃止国だということは知らない人が多いだろう。セネガルが1次リーグで敗退したことで、ずっと続いていたアフリカ代表の決勝トーナメント進出が絶えた。いつからか調べると、1986年メキシコ大会で今のような16強を選ぶシステムになって以来、8大会すべてでアフリカ代表が一か国はあった。2020年日韓大会はセネガルが8強、2006,2010年大会はガーナ、2014年ブラジル大会はアルジェリアとナイジェリア。

 世界では西ヨーロッパ各国が20世紀後半に続々と死刑制度を廃止し、EUに加盟するには死刑廃止が条件になっている。1989年の東欧革命以後に旧ソ連圏諸国も死刑が廃止された。ポーランド映画に故クシシュトフ・キェシロフスキ監督の「殺人に関する短いフィルム」(1988)という傑作があって、そこでは死刑制度があった。しかし1998年に廃止された。最近東欧諸国では右派政権の国が多く、ポーランドでも死刑復活論議があるようだが実現はしないだろう。西ドイツやイタリアでは、第二次大戦後に戦争への反省で死刑制度が廃止になった。

 ラテンアメリカ諸国では1970年代に過酷な軍政を経験した国が多い。チリ、アルゼンチン、ブラジルなど民主化が進む中で死刑制度が廃止されていった。軍事裁判などでは死刑が残っている国(ブラジル、チリ、ペルー)などもあるが、「事実上の死刑廃止国」とみなされている。アルゼンチン、コロンビア、メキシコ、パナマ、コロンビアは完全な廃止国。つまりサッカーの強いヨーロッパとラテンアメリカ諸国は死刑がないのが標準になっている。ヨーロッパで死刑があるのは、旧ソ連時代を引き継ぐ独特の政治体制を持つベラルーシだけ。

 死刑が法律上は残されているが、10年以上死刑執行がなく、死刑を推進しない政策をとっていると考えられる国もある。それらの国も「事実上の死刑廃止国」とされる。開催国のロシアはそのカテゴリーに入っている。韓国も同じ。モロッコチュニジア、それに今回は出場できなかったけど前回大会でハリルホジッチ監督が指揮して16強に入ったアルジェリアも事実上の廃止国になっている。イスラム教諸国の中でも、北アフリカでは死刑制度を凍結しつつある国もある。
 (死刑廃止国の増加を示すグラフ)
 こうしてみると、ワールドカップ出場国で死刑があるのは、日本イランサウジアラビアエジプトナイジェリアの5か国しかないのである。それが世界の情勢で、このことは法務官僚なども知らないはずはないのだが、一向に世界からの抗議が聞こえないふりをしている。もっとも中国やインドなどが死刑存置国だから、世界の人口に占める割合は大きいかもしれない。だけど、イスラム教諸国アジアの強権的国家にしか死刑制度は残っていない。

 日本のように重大犯罪発生率が低い国がどうして死刑を存置しているのか。世界は不思議に思っているが、要するに「アジアの強権的国家」だということだろう。「国家権力の峻厳さ」を示すために体制側が死刑を手放さないということだと思う。そういう国では教育制度も国家主導で進み、自分で考える人間が抑圧される。監督の指示で「犠牲バント」という作戦が存在する野球が人気があるのも、日本らしいのかもしれない。そう考えてくると、日本サッカーに創造力あふれるプレーが少ないのと、日本に死刑制度が存在することには通底するものがあるのかもしれない。
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無実を叫ぶ死刑囚たち-6.23集会

2018年06月28日 23時24分22秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 6月23日(土)に「無実を叫ぶ死刑囚たちー狭き門のまえで」という集会に参加した。主催は「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で、水道橋の全水道会館。なんだか集会に足を運ぶのも久しぶりなんだけど、会場はいっぱいになっていた。聞こえてきたのは「袴田さんの(再審取り消し)決定はひどい」という声だ。僕も同じような気持ち。僕が集会に出たからといって、再審決定に影響するわけじゃないだろうが、せめて集会に行くぐらいしたいなと。

 最初に徳田靖之弁護士による飯塚事件の講演。徳田さんはハンセン病国賠訴訟で最初に提訴された熊本の西日本訴訟の中心を担った。今もハンセン病市民学会の共同代表の一人で、何度も話を聞いている。ハンセン病差別による死刑事件・菊池事件の再審請求の中心である。菊池事件は1962年に死刑が執行されてしまったが、飯塚事件も2008年10月28日に死刑が執行されてしまった。徳田弁護士は2審から担当し、再審の準備も進めていたが間に合わなかった。2009年10月28日に妻によって再審請求されたが、福岡地裁、高裁が棄却し最高裁に特別抗告中。
 (現代人文社のブックレット「飯塚事件」)
 飯塚事件の大問題は、怪しげなDNA型鑑定があるんだけど、警察の鑑定で試料が全部使われていて、再鑑定ができないこと。1992年の事件でDNA型鑑定の初期の時代だった。今では技術が格段に向上していて、その結果足利事件などの再審が開始された。再鑑定さえできれば、無実であればすぐに判る。(DNA型鑑定は他のすべての鑑定と同じく、それだけでは有罪を完全に証明できない。勘違いしている人がいるけど、個人の完全な識別はDNA鑑定ではできない。)

 その他車の目撃証拠も怪しいのだが、もともと一切の「自白」がない。多くの再審事件では、「自白」と科学鑑定の矛盾を大きな理由としたことが多い。しかし、この事件はそういうことができない。あくまでも無実を主張したことがかえって不利になっている。再審請求が遅れたことで、死刑執行を防げなかったことを徳田弁護士は「弁護過誤」と語って大きな悔いを何度も語った。しかし、法務省は無実主張を続けていた事件であると知っていて、問題になる前に執行してしまった。法務大臣の責任は大きい。(麻生内閣の森英介法相。9月24日に就任して、ほぼ一月後である。)

 その後、袴田事件弁護団の小川秀世弁護士から袴田事件の説明。論理的におかしく、きちんと答えないだけでなく、捜査機関が証拠をねつ造する動機がないなど悪意ある先入観があるとしか思えない。あきれ返って言葉もないような感じだった。その後、フォーラム90の安田好弘弁護士も加わってシンポジウム。死刑事件、特に執行されてしまった事件の再審は開かせないという国家意思があるのではないか。その指摘は重い。再審請求によって死刑の執行を停止する法改正が必要だとする。実は昨年に死刑を執行されたケースは再審中のものが3件あった。安田弁護士はそれは再審請求中のオウム死刑囚執行の「予行練習」だと指摘した。

 第2部では死刑冤罪再審の最新情報として5件の報告が行われた。鶴見事件の高橋和利さん、市原事件の佐々木哲也さんのように、冤罪問題に関心がある人には一応ある程度知られている事件もある。それでも細かい点は初めて知ることが多い。風間博子さん、阿佐吉廣さん、松本健次さんの事件はほとんど知らない。どの事件も「実行犯」「共犯」の供述が問題になっているように思う。松本さんのケースは関西の事件でほとんど知らなかったが、獄中で水俣病認定を受けているというのは驚いた。弁護士だけが再審の中心になっている事件は大変だなと思う。
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袴田事件の再審、不当な取り消し決定

2018年06月11日 21時25分26秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 台風が近づいて、列島各地で大雨が続いた。何か嫌な感じがしないでもなかったが、6月11日に袴田事件の再審(即時抗告審)の決定が出るということで、僕も午後1時ころに霞が関の東京高裁前に行った。すでに多くのマスコミが集結し、支援者や市民多くが門前を取り巻くように集まっている。著名事件の場合は大体そうなる。今回は「裁判」ではなく「再審請求」なので、「判決公判」はないから傍聴券を求める行列はできない。午後1時半に「決定書」が渡されるだけである。
  
 支援者の多くはバラの花を持ち、開始決定を疑っていないようだった。人が多くて状況が判らないけど、1時半を過ぎてもなかなか決定が伝わってこない。そのうち「えっ」などの反応が聞こえてきて、人々の間を「不当決定?」という言葉がさざ波のように通り過ぎて行った。写真の一枚目、「不当決定」の垂れ幕が反対側を向いている。ようやく真ん中に近づいた時にはこれしか撮れなかった。高裁に向かう姉の袴田秀子さんの写真もうまく撮れなかった。雨じゃなくて傘がなければもっと近づきやすかったんだろうが、まあ写真が目的じゃないから仕方ない。

 今回は僕も「やはり開始決定なんじゃないか」と思いつつも、検察側、裁判所の引き延ばし戦術のようなものを感じていた。どうも静岡地裁の開始決定に悪意を持っている感じで、「差し戻し」は2.3割の可能性があるかと思わないではなかった。この事件に関しては、静岡地裁の決定の前後に「袴田事件再審の決定迫る」「画期的な決定ー袴田事件の再審開始決定」「支援するという意味-袴田事件から」と続けて書いた。地裁開始決定は、本田鑑定に価値を認め、一審裁判中に味噌タンクから見つかった「血染めの衣類」をねつ造の疑いがあると批判した。そしてこれ以上袴田さんの拘束を続けることは著しく正義に反するとして、袴田さんの釈放を命じたのだった。

 再審決定を取り消すというのなら、袴田さんは恐るべき4人殺しの真犯人である。釈放したままでは、反対の意味で「正義に反する」はずである。しかし、高裁決定は「年齢や健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すのは相当とは言い難い」などとして釈放を取り消す決定はしなかった。今さら再び拘束されるという、あってはならないことは起こらないようだ。それはいいんだけど、そのことはこの決定が正義の観点から不当だということをまざまざと示している。袴田さんはすでに82歳。特別抗告で数年間使う間に死んでくれないかな、それまで釈放は取り消さないで置いてやるからというのが、言わず語らずのホンネなんではないだろうか。

 この取り消し決定が示すものは、この国の「国家権力」が死刑制度を絶対に手放さないという意思だと思う。多くの国で、死刑廃止は冤罪死刑囚の問題から実現した。特に「無実なのに執行されてしまった死刑囚」がいたら、普通の国民は死刑制度の残酷さに戦慄するだろう。そして日本でも冤罪の疑いが濃い死刑囚が何人も執行されてきた。近年では「飯塚事件」というケースがあった。その事件のDNA型鑑定は、後に冤罪が証明される足利事件と同じやり方で行われた。

 足利事件で弁護側が無実の証拠としたのが、本田克也筑波大教授の鑑定である。袴田事件の一審開始決定に結び付いたのも同じ本田鑑定である。一方、足利事件の再審で検察側が再鑑定を依頼したのが鈴木広一大阪医科大教授である。足利事件では本田、鈴木両鑑定共に、犯人とされた菅家さんのものではないとしたが、裁判所は鈴木鑑定のみを取り上げて再審開始とした。今回、東京高裁が本田鑑定の「再評価」を求めたのが、同じく鈴木教授だった。つまり、「本田鑑定」対「鈴木鑑定」の対立の構図が同じなのである。そして本田鑑定のやり方を評価すると、足利事件を超えて飯塚事件にも疑いが広がってゆく。

 今回の決定を見て思ったのは、そこまで本田鑑定を否定したいのかということだ。4年もかかった即時抗告審はDNA型鑑定をめぐって難しいやり取りが続いた。僕にも内容はよく判らない。そんな状況が続き、袴田さんも釈放されて、なんだか一段落という感じもないじゃなかった。でも、死刑囚の再審はもう開かせないという検察側の執拗な抵抗が実を結んでしまった。単に袴田事件に止まらず、死刑制度そのものを考え直さないと「国家」のたくらみを打ち破ることが難しい。そういうことなんだと思う。なお、ここでは細かく書かないけど、本田鑑定の評価とは別にして、前証拠を総合的に評価すれば「ここまで冤罪性の高い事件は珍しい」と思うほどである。最高裁に大きな期待は掛けられないが、それでも事件の本質を直視して欲しいと思う。
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②

2018年05月29日 22時51分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 前回が途中で終わってしまったので続き。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、刑事訴訟法が執行を禁じる「心神喪失」の状態にあるのか。麻原彰晃は一審途中から不可解な言動が多くなり、やがて弁護士や家族ともコミュニケーションが取れなくなった。一審の死刑判決後、控訴審では弁護団の問いかけに答えず、控訴趣意書が提出できなかった。弁護側は公判停止を求め、精神鑑定が行われた。裁判所が依頼した鑑定では訴訟能力が認められ、控訴棄却となった。それを最高裁も認め、2006年9月には死刑判決が確定した。その状態をどうとらえるか。

 一審で弟子たちの離反が相次ぎ、厳しい判決が予想された。その頃から不可解になったので、麻原は「詐病」だという考えがある。「詐病」(さびょう)とは「病気のふりをする」ことで、精神状態は正常だという判断になる。「都合が悪い現実から自己逃避して精神が崩壊する」というのは、まさに病気なのだから「詐病」とは言わない。当初は「詐病」的な部分がなかったとは言えないかもしれないが、ここまで長く「詐病」を続けることが人間には可能なのだろうか

 「詐病」そのものが可能なのかどうか僕には判らないが、今では「詐病」説はむしろ麻原彰晃の「偉大さ」を主張するものじゃないだろうか。食事はしているんだから病気じゃないなどと言う意見も見たことがあるが、重い精神疾患の患者は餓死してしまうのか。「摂食障害」じゃないんだから、そりゃあ食事は取るだろう。「詐病」説の人の多くは、「統合失調症」などの精神疾患は「こんな症状」があるはずだと自分なりのイメージを持ち、そうじゃないから詐病だいうことが多いように思う。病態には様々のヴァリエーションがあって当然で、あまり簡単に判断できないものだと思う。

 長い拘束があると「拘禁反応」が起きるのは間違いない。およそどんな人にも起こり得るだろうが、近年まざまざと見ることになったのが袴田事件の袴田巌さんである。無実を訴え続けていた袴田さんが、いつしか姉の面会にも応じなくなり、不可解な言動をするようになった。再審請求が認められ、確定前だけれど釈放が認められた。釈放後の様子は映像で伝えられているが、釈放されたあとになっても不可解な言動はすぐには無くならない。紛れもなく無実である(と考える)袴田さんでさえそうなんだから、麻原彰晃に異常な「拘禁反応」が起こっても不思議はないだろう。

 いや、もちろん精神医学の専門家でもなく、本人に面会したわけでもない僕には正確な判断はできない。もっと重い精神疾患(統合失調症など)であるかもしれず、また「詐病」なのかもしれないが、それにしても何らかの拘禁反応は生じていると推測するのが常識的な判断ではないだろうか。問題はそれが「心神喪失」とまで言えるかどうかである。その場合、刑事裁判なら罪の軽減をしなくてはならない「心神耗弱」状態に止まっているとしたならば、どう判断すべきか。

 刑事訴訟法にきちんと規定されている以上、「心神喪失」者の死刑を執行したら、それは「殺人」だろう。問われている罪の大きさから、麻原彰晃は単なる死刑囚の一人とは言えない。執行には一点の曇りがあってもいけない。それは死刑制度の存廃などの議論とは関係ない。むしろ死刑賛成者こそが論じるべき問題だろう。少なくとも法務省が誰の意見も聞かず、急いで執行してしまうようなことはあってはならない。麻原彰晃の精神状態をどう考えるか、多くの人が関わる議論が必要だ。多くの報道機関がこの問題をスルーしているのはおかしいのではないか。

 「第一」の論点で長くなってしまった。第二の論点はオウム真理教事件の特異な性格である。オウム真理教にはあまりにも多数の犯罪行為があり、多数の人が複数の事件に関わった。そのため「統一的なオウム真理教法廷」などはなく、個々バラバラに裁かれたが事実認定と量刑は同じ構造を持っている。教祖である麻原彰晃が自ら実行した事件はないわけだが、主要な事件、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などは麻原彰晃が主犯とされた。すべては教祖の命令によるものという認定になっている。だから、「主犯」が「心神喪失」で死刑執行ができないとしたら、命じられて従った実行犯だけを死刑にしていいのかという問題が起きる。

 地下鉄サリン事件を例にとると、サリン製造と散布は死刑、運転手は無期懲役である。一般的に言って、実行犯は重く、運転手だけなら軽い。銀行強盗なんかの映画では、そこから分け前をめぐって争いが起きるのが通例である。でも、この事件では運転手になるか、車内で散布するかの違いは本質的なものではない。運転手でも坂本弁護士、松本サリンの実行犯である新実智光は死刑だが、彼の車に乗っていた林郁夫は霞ヶ関駅で2人の死者が出たにもかかわらず自首が認められ無期懲役になっている。

 それは理解できるのだが、丸の内線荻窪発池袋行列車の実行犯横山真人の場合、唯一死者が出なかった。もしこの事件だけだったら、殺人未遂や傷害では死刑判決にはならない。死者が出るか出ないかは偶然であって、刑事責任に変わりがないとも考えられるが、それを言えば、散布役か運転手かも本人が決めたことではない。地下鉄サリン事件では、実行犯の広瀬健一横山真人豊田亨林泰男の4人が死刑判決だが、それぞれの車内での死者数には違いがある。しかし、総体として地下鉄サリン事件という一体の犯罪として裁いた。刑法上問題はないけれど、なんだか裁判官が事前に打ち合わせしたかとさえ思えるほど同じ判断をしている。

 この特異な事件と裁判結果を見ると、決まった以上は死刑を執行しなくてはいけないと考えるのもどうなんだろう。世界的に注目された事件だけに、世界でテロ実行犯に関する死刑論議が起きるだろう。だからと言って、この事件だけ新しい仕組みを作るのも確かにおかしい。じゃあどうするべきか。とりあえず「主犯」である麻原彰晃の精神状態に関する判断をどうするかを法務省が考えるべきだ。そして「恩赦」制度がある以上、可能性を考えるべきではないかと思う。無罪であるとは到底考えられないので、もし「終身禁錮」という刑があれば、比較的にはふさわしいかと思う。
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①

2018年05月28日 23時22分04秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件死刑囚の執行が近いという観測がなされている。2018年1月18日付で、最後まで続いた高橋克也被告の無期懲役判決が最高裁で確定した。これで1995年に摘発されたオウム真理教事件の裁判が、逃亡していた人も含めてすべて終わった。3月14日には、12人いる死刑囚のうち7人が東京拘置所から他の拘置所に移送された。(死刑囚は「懲役刑」ではないので、死刑確定後も刑務所ではなく拘置所で拘束され執行される。)死刑執行とは直接関係ないと法務省は言ってるようだけど、やはり執行の準備なんじゃないかと言われている。

 この問題は一度ちゃんと書いておきたいと思っていた。国会会期末も近づいてきたから、そろそろ書かないと。(年によって違うが、近年は国会終了後の6,7月頃に死刑執行が多い。)僕はそもそもが死刑廃止論者なので、原則的には世界各国のすべての死刑に反対なんだけど、ここで書くのは死刑廃止論の理由ではない。オウム真理教事件の特別な事情を考えたいのである。

 4つの理由と書いたけど、それらは別々のものではなく関係している。第一の理由は主犯とされる麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の現状が不明で、「心神喪失」の可能性があることである。第二の理由は、オウム真理教裁判の独特な事情である。第一と第二は書きだすと長くなるから後に回す。第三は「再審や恩赦の検討が不十分である」ということだ。

 死刑に関しては様々な考えがあっても、現に死刑という制度が厳然とあるのは間違いない。だから法に決まっている執行をしないわけにはいかないというような発想の人が時々いるけど、そんなことを言うなら死刑囚にも再審や恩赦という制度が厳然とある。そっちも尊重しないといけない。再審請求をしている死刑囚もいるんだから、その決着がつかないままでは執行できないはずじゃないのか。仮に本人に再審や恩赦の意向がなくても、今や再犯可能性がゼロというべき死刑囚に対して恩赦は十分考えていいのではないか。

 第四はオウム真理教事件が「大量破壊兵器」を使った「宗教テロ」だったことだ。21世紀を迎えると、毎日のように宗教テロや大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)に関するニュースを見聞きしている。世界が最初に衝撃を受けたのが、1995年の地下鉄サリン事件だった。そういう事件は完全な解決が難しい。指導者(教祖)を死刑にすれば、かえって伝説的なカリスマとして語り伝えられないか。また、オウム死刑囚はある意味で世界的に非常に重要な存在かもしれない。なぜ易々と「マインド・コントロール」されたのか。なぜ「サリンの製造」というすごい技術が可能だったのか。人類史的には「生かしてその体験を全人類で検証する」ということがあっていいのではないか。

 さて第一に戻って、麻原彰晃はどうなっているのか。言うまでもなく、刑事訴訟法では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)と規定している。刑法39条でも、犯行時に心神喪失者は罰しない、心神耗弱者は罪を軽減するとある。この規定に関して一番大きな問題は精神医学的に「心神喪失」「心神耗弱」の定義が難しいことだと思う。確かに昔は精神疾患は「難治」だった。ほとんど「不治の病」と思われていた。でも今では適切な薬物療法でかなり抑えられる。一方、人格障害など薬では治せないケースばかり重い刑事責任が科せられている。

 そういう大きな問題はこれ以上書く余裕がないけれど、近代の刑事裁判は「理性が身体性に優先する」という大原則がある。どんなに貧しくて腹が減っていても、コンビニで万引きしてはいけない。社会福祉制度を利用するなど、自分で対策を講じなくてはいけない。それを逆に考えると、自分を抑えられる理性が働かない人間には罪を問えない。同じことが死刑の執行にも規定されているわけで、本人が自分の行為が判らないようになってしまっては、「刑罰」を科す意味がないと考えるわけである。とにかくそういう規定が法にある以上、それはきちんと遵守されないといけない。では麻原彰晃は今どのような状態にあるのか。大分長くなってしまったので、ここでいったん切って2回に分けたいと思う。
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冤罪被害者の絆ー映画「獄友」

2018年04月09日 23時17分59秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 金聖雄(キム・ソンウン)監督の記録映画「獄友」(ごくとも)が東京で劇場公開中。金監督は「花はんめ」などを作ったあと、最近は狭山事件や袴田事件の映画を作ってきた。今回の「獄友」はそれに続く「冤罪三部作」と言うべき作品。冤罪被害を受けて人生の長い時間を獄中にとらわれた男たち及びその家族を見つめている。「獄友」という言葉は造語だが、なるほどこれしかない。

 情報的には大体知っている内容なんだけど、でも見てよかったと思ったのは「顔がいいなあ」ということだ。最初から出てくるのは、狭山事件石川一雄さん、布川事件桜井昌司さん、杉山卓男さん、足利事件菅家利和さんである。(杉山さんは2015年に死去。)

 足利事件の菅家さんは2010年に再審で無罪判決が出た。布川事件の再審無罪判決は2011年で、その判決公判に石川さんや菅谷さんも傍聴に出かけた。再審が開かれない狭山事件の集会などにも、桜井さんたちは出かけて行く。また再審を求めていた死刑囚の袴田巌さんが2014年の再審開始決定で釈放されてきた。その時もまた集う。こうして冤罪を訴える集会で顔を合わせる彼らを見た監督が、この独特な絆を「獄友」と名付けて映画に撮り始めた。表の顔だけでなく、カラオケや配偶者の話など「裏」も撮影している。

 布川事件の二人は「ショージとタカオ」という優れた記録映画になっている。石川さんと袴田さんは金監督自身が撮ってきた。だから顔をカメラに出して冤罪問題を訴えるだけでは、もうどこかで見た感じも否めない。この映画の特徴は「獄中体験」に焦点を当てていることだ。石川さんと桜井さん、杉山さんは千葉刑務所に同時期にいた。石川さんと袴田さんは東京拘置所で知り合い。菅家さんは時代が違うけど、やはり千葉刑務所。だから、共通の思い出話がある。「獄友」はそういう彼らの絆の深さを示している。

 もう顔を見れば彼らが冤罪であることは誰も疑えないだろう。それでも人はあれこれ言うものだ。そんなときに同じ苦しみを体験した者どうしの言うに言われぬ深い思いが顔に出るんだと思う。お互いに自分は何者かを証明する必要のない関係。世の中には実はそんな関係は少ないんじゃないだろうか。「刑務所に入って良かった」と本心から言える言える桜井さんのひたすら前向きな生き方に学ぶことは多い。この映画の主人公格は、やはり桜井さんだろう。何しろ獄中で書いた詩に曲を付けてCDにして、コンサートまで開く。その様子は見ていて楽しい。(僕は4年間ほど六本木高校で桜井さんの話を授業でやっていたので懐かしかった。歌も聴いた。)

 「冤罪」は身に降りかかる災難である。だが、裁判でも、再審請求でも、あるいはその後に至っても、検察側は自分たちに不利な証拠を隠して公開しない。(ある程度は公開して、それが再審開始の決定打になることも多い。)だから、もともとは単に「怪しい奴」で「不良少年」だったりした人が、「権力犯罪」の目撃者になってしまう。自分だけははっきり知っている自分の無罪を証明するために、権力と戦わざるを得なくなる。そんな宿命を逃げずに引き受けたから、これらの人々の顔には深い明るさがある。だから多くの人に見て欲しいと思う。

 映画には出てないことをちょっとだけ。布川事件の支援運動は共産党系の日本国民救援会が中心になってきた。一方、狭山事件の場合、解放運動で解放同盟と共産党の対立が激しくなった段階で、共産党系は手を引いて、以後は解放同盟系の主導で支援が進められてきた。だから桜井さんが石川さん支援集会に行くとなると、布川事件支援者の中から「狭山に行くのは…」と言われるし、狭山事件の集会では「共産党帰れ」とヤジを飛ばす人もいる。(どっちも桜井さんが自分のブログで書いていたことである。)

 だけど、桜井さんは狭山支援を止めない。石川さんは冤罪だと、自分の体験から判っているからだ。それどころか、渋谷暴動事件の中核派・星野文昭さんの再審支援にも行く。政治的な考えの違いはシャバに出て議論すればいい。権力犯罪の犠牲者として、冤罪被害者の訴えを支援していく。そんな姿勢が背後にあって、桜井さんたちの活動が続いている。非常に大切なことだと僕は思っている。(東京ではポレポレ東中野で、13日まで12:30、15:10~の2回、14日から朝10時のみ上映。)
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