尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

クロード・シャブロル監督の映画を見る

2011年07月02日 23時05分56秒 |  〃 (世界の映画監督)
 クロード・シャブロル監督映画の日本初の大特集がフランス映画祭の企画として行われている。去年、シャブロルとエリック・ロメールが亡くなり、ヌーヴェル・ヴァーグも歴史となった。それで追悼特集かと思ったら、そうではなく初めはシャブロルを日本に呼ぶ計画もあったのだそうだ。
 
 1950年代末のフランス「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)という若き映画人の映像革命があった。それが世界に波及し、映画を変える。それまで映画と言うのは、プロにしか作れないものだった。映画芸術と言おうが、美男美女スターの娯楽映画であろうが、普通の若者がすぐに作れるものではなかった。50年代半ば、批評家アンドレ・バザンの主催する「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画ファンの中から、「カメラ=万年筆」論が出てきて、誰もが自分の言いたいことを映像化してよいのだという主張がなされた。誰でも動画を投稿できる現代と違う。金持ちなら8ミリ映画などでホーム・ムーヴィーを撮ることはあったが、公開される映画作品はプロが長年の修業を経て作るものだった時代の話である。

 それを初めて打ち破ったのが、若き映画ファンの批評家シャブロル。よく「ヌーヴェルヴァーグは遺産で始まった」と言われるが、それは事実で当時の妻のおばの遺産が入り、それで映画会社を作ったのだ。「美しきセルジュ」「いとこ同士」などの長編が評判を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグの開祖となる。その後、トリュフォーが「大人は判ってくれない」を撮り、ゴダールが「勝手にしやがれ」を撮る。やがてヌーヴェル・ヴァーグと言えば、この二人と言うことになり、今年の夏に日本で公開予定の記録映画も「ふたりのヌーヴェルヴァーグ  ゴダールとトリュフォー」というのである。
 ゴダールは60年代の伝説となり、過激な映画を撮り続け、ついには商業映画と縁を切り、マオイスト(毛沢東主義者)として政治プロパガンダの映画を撮るに至る。やがて商業映画に回帰するも、一般的な物語をつくることはその後もない。トリュフォーはやがて自伝的な青春映画の世界を抜け出し、フランスの恋愛映画の巨匠となっていき世界的に評価され52歳で亡くなる。

 「ゴダールか、トリュフォーか」という命題は世界のシネフィルの心を捕える。「革命か、恋か」、生の目的はなんなのか?そんな時代に、シャブロルは何をしていたか?いつの間にか娯楽映画に徹し、ミステリーばかり撮り続けるシャブロルは「ヌーヴェルヴァーグの裏切り者」と思われる。60年代半ば以後は、日本でもほとんど公開されず、忘れられた映画作家となっていった。しかし、今見るとシャブロルはブランクなく60本以上の映画を残した。それが実に面白いのである
 カイエに集う若者たちはヒッチコックを崇め、またアメリカでは単なる職人監督としてしか思われていなかったニコラス・レイやサミュエル・フラーを「作家」として「発見」した。今見ると、ヒッチコックのサスペンスや、レイやフラーの犯罪映画の呼吸を一番フランスで生かしたのはシャブロルではなかったか。

 思えば革命や恋を信じられた60年代後半に、すでにシャブロルは何者も信じられない、自分さえ信じられない心理サスペンスを作りまくっている。キャリアの中にはパトリシア・ハイスミスやルース・レンデルの映画化があるが、ミステリー好きならよくわかると思うが、つまりシャブロルが作ったミステリーとはそういう映画だったのだ。「オリエント急行殺人事件」などが作られていた時代に、ハイスミスの「ふくろうの叫び」を映画化していることを思えば、驚くべき先見性。今こそシャブロルの再発見の時だ

 今見ると、ゴダールやトリュフォーには面白くない映画もある。この二人もミステリーやSFを随分撮っているが、面白さはシャブロルが随一。映画はサスペンスなのだというような映画のオンパレード。これは驚きだ。恐れ入った。僕は特に面白かったのが「肉屋」「女鹿」。別の機会に見た「引き裂かれた女」や「悪の華」も大変良かった。また同時代的に見た唯一の日本公開作品、「主婦マリーがしたこと」はサスペンスというよりマジメな社会派でもあるが、ナチス支配下で「堕胎」で罰せられる主婦を描いて傑作。イザベル・ユペールがヴェネチアで女優賞を取り、以後のシャブロル作品のヒロインとなった。
 特集は今後も続くが、東京の日仏学院で字幕なし、または英語字幕が多く、それはちょっとつらいかなと思う。(日本語字幕、または同時通訳作品もある。)ということで、どこかでシャブロル特集があったらおススメです。

 と同時に、時代がたって見直すべきことと言うのは多いなあと感じる。単なる娯楽作家になってしまったと思っていたシャブロルが今見ると、むしろ新しいとは。僕は晩年によく公開されていたエリック・ロメールが案外つまらないものが多かったと思ってるんだけど、芸術とか政治とか歴史を見るときには「悪意」が大切で、善人では深みが出ないということを示しているかと思う。
コメント (2)
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