さいたま市の公民館が、俳句教室で選ばれた「九条守れのデモ」を詠み込んだ句を月報に掲載しなかったという問題。僕には最初この公民館の対応が全く理解できなかった。要するに俳句である。中身に憲法やデモが出てくるからと言って、それを掲載したら「世論が二分されている問題」に関して「公民館の考えを表明した」と受け取る住民がいるのだろうか。さいたま市の市民の「民度」はそこまで低いのか。それともさいたま市の公民館職員は、地元の住民を「愚民」ととらえているのだろうか。
そのどちらだとしても、社会教育法の趣旨から言って大問題だろう。もし実際に「この俳句を掲載するとは公民館は偏っている」と抗議してくる人がいたら、そのときこそ公民館の出番ではないのか。これは活動団体が自主的に選んだもので、公民館は活動団体の自治に介入することはしないと言えばいいではないか。反対意見があれば、反論を書いてもらって掲載すればいいし、その問題に関する討論会を開催すればいい。そんなことを言うと、そんな「理想論」は通用しないとい言われるのだろうか。しかし、そういう人は「社会教育法」を読んでいない人である。(太字引用者)
第二十二条 公民館は、第二十条の目的達成のために、おおむね、左の事業を行う。但し、この法律及び他の法令によつて禁じられたものは、この限りでない。
一 定期講座を開設すること。
二 討論会、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること。
三 図書、記録、模型、資料等を備え、その利用を図ること。
四 体育、レクリエーシヨン等に関する集会を開催すること。
五 各種の団体、機関等の連絡を図ること。
六 その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること。
公民館(あるいは地域センターとか文化センターなどと言われる場所)は、文化、体育、レクなどの活動だけの場所ではないのである。討論会、学習会などを行うことは、本来の設置目的なのである。なお、第二〇条の目的を引用しておけば、以下のように書いてある。
第二十条 公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
そもそも公務員は憲法九九条により、憲法擁護の義務がある。だから護憲改憲に関して「世論を二分する」としても、改憲論の方に与していると思われたら問題だろうけど、護憲の主張を載せることには何の問題もないはずである。
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
ところで、「公民館の考えと誤解される恐れがある」というのが当初の不掲載の根拠である。「そういう論拠で批判、攻撃してくる人がきっといるだろう」と想定しているわけだ。そういう批判は理性的な討論会なんかできるようなものではない。だからタテマエばかり言われても困るというのが実はこの問題の本質だと思う。寄せられるのは「批判」ではなく「クレーム」であり、問題は「クレーマー対応」なのであると公民館の側では思っていることだろう。
批判してくる(と想定される)人も、俳句が公民館の考えなんかでないのは承知のうえで、難癖をつけることが目的なのである。「行政は住民(国民)に奉仕するべきサービス機関であるのに、一定の立場を主張するような意見を載せてどういうつもりだ、どう責任を取るんだ」などと直接、あるいは電話、電子メール、ファックス等で怒鳴られ続ける。インターネットで口汚くののしられ、「悪評」がどんどん拡散する。その結果、もはや他の仕事をする余裕もなくなってしまう。そういう事態も想定されなくもないのだから、公民館としては利用者の安全のためにも、万が一にも批判(クレーム)を受けないようにするのが正しい対応なんだという訳である。今の「ネット右翼」などという存在を見ると、あながちその想定を無視することはできない。
でもそれでいいのだろうか。公務員とはタテマエを掲げる存在でなくてはいけないのではないか。憲法とその下の法律、条令等に従って仕事をするのが公務員の役割なんだから、ここで引いてはおかしい。一般行政はともかく、社会教育を担当する部署としては、あくまでも「批判があれば討論しましょう」というのが正しいだろう。一歩譲ると、どんどん守るべきラインが後退してしまう。公務員はもちろん、国民全員が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(日本国憲法第十二条)のである。この公民館は「不断の努力」をしていないのではないか。そして、それは我々全員に関係のあることである。われわれは国民の一員として「不断の努力」で、自由と権利を守ろうと努めているだろうか。
この問題は公務員の処遇や業績評価にも関係があると思うが、長くなるので省略する。「公務員を競争させれば行政が良くなる」などという発想では、数字で測る業績評価が難しい公務員の世界では「自分が担当の時に問題が起きなければマイナス評価を受けないだろう」となりがちだろう。ところで、掲載拒否に反対する人々は市民集会を開いたと新聞に出ていたが、一方「改憲派」の方はどう思っているのだろうか。この俳句は「護憲俳句」だとされているのだから、批判してくる方は「改憲派」と想定しているのである。改憲派の中には、「たかが俳句」に目くじらを立て公民館に文句を付けてくる輩がいると想定されているのだ。「われわれはそんなに度量の小さい人間ではない」と怒る人はいないのか。それも僕には不思議である。
そのどちらだとしても、社会教育法の趣旨から言って大問題だろう。もし実際に「この俳句を掲載するとは公民館は偏っている」と抗議してくる人がいたら、そのときこそ公民館の出番ではないのか。これは活動団体が自主的に選んだもので、公民館は活動団体の自治に介入することはしないと言えばいいではないか。反対意見があれば、反論を書いてもらって掲載すればいいし、その問題に関する討論会を開催すればいい。そんなことを言うと、そんな「理想論」は通用しないとい言われるのだろうか。しかし、そういう人は「社会教育法」を読んでいない人である。(太字引用者)
第二十二条 公民館は、第二十条の目的達成のために、おおむね、左の事業を行う。但し、この法律及び他の法令によつて禁じられたものは、この限りでない。
一 定期講座を開設すること。
二 討論会、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること。
三 図書、記録、模型、資料等を備え、その利用を図ること。
四 体育、レクリエーシヨン等に関する集会を開催すること。
五 各種の団体、機関等の連絡を図ること。
六 その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること。
公民館(あるいは地域センターとか文化センターなどと言われる場所)は、文化、体育、レクなどの活動だけの場所ではないのである。討論会、学習会などを行うことは、本来の設置目的なのである。なお、第二〇条の目的を引用しておけば、以下のように書いてある。
第二十条 公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
そもそも公務員は憲法九九条により、憲法擁護の義務がある。だから護憲改憲に関して「世論を二分する」としても、改憲論の方に与していると思われたら問題だろうけど、護憲の主張を載せることには何の問題もないはずである。
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
ところで、「公民館の考えと誤解される恐れがある」というのが当初の不掲載の根拠である。「そういう論拠で批判、攻撃してくる人がきっといるだろう」と想定しているわけだ。そういう批判は理性的な討論会なんかできるようなものではない。だからタテマエばかり言われても困るというのが実はこの問題の本質だと思う。寄せられるのは「批判」ではなく「クレーム」であり、問題は「クレーマー対応」なのであると公民館の側では思っていることだろう。
批判してくる(と想定される)人も、俳句が公民館の考えなんかでないのは承知のうえで、難癖をつけることが目的なのである。「行政は住民(国民)に奉仕するべきサービス機関であるのに、一定の立場を主張するような意見を載せてどういうつもりだ、どう責任を取るんだ」などと直接、あるいは電話、電子メール、ファックス等で怒鳴られ続ける。インターネットで口汚くののしられ、「悪評」がどんどん拡散する。その結果、もはや他の仕事をする余裕もなくなってしまう。そういう事態も想定されなくもないのだから、公民館としては利用者の安全のためにも、万が一にも批判(クレーム)を受けないようにするのが正しい対応なんだという訳である。今の「ネット右翼」などという存在を見ると、あながちその想定を無視することはできない。
でもそれでいいのだろうか。公務員とはタテマエを掲げる存在でなくてはいけないのではないか。憲法とその下の法律、条令等に従って仕事をするのが公務員の役割なんだから、ここで引いてはおかしい。一般行政はともかく、社会教育を担当する部署としては、あくまでも「批判があれば討論しましょう」というのが正しいだろう。一歩譲ると、どんどん守るべきラインが後退してしまう。公務員はもちろん、国民全員が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(日本国憲法第十二条)のである。この公民館は「不断の努力」をしていないのではないか。そして、それは我々全員に関係のあることである。われわれは国民の一員として「不断の努力」で、自由と権利を守ろうと努めているだろうか。
この問題は公務員の処遇や業績評価にも関係があると思うが、長くなるので省略する。「公務員を競争させれば行政が良くなる」などという発想では、数字で測る業績評価が難しい公務員の世界では「自分が担当の時に問題が起きなければマイナス評価を受けないだろう」となりがちだろう。ところで、掲載拒否に反対する人々は市民集会を開いたと新聞に出ていたが、一方「改憲派」の方はどう思っているのだろうか。この俳句は「護憲俳句」だとされているのだから、批判してくる方は「改憲派」と想定しているのである。改憲派の中には、「たかが俳句」に目くじらを立て公民館に文句を付けてくる輩がいると想定されているのだ。「われわれはそんなに度量の小さい人間ではない」と怒る人はいないのか。それも僕には不思議である。