永井荷風の傑作「腕くらべ」とその関連散歩。一月ほど前の散歩だが、いつでもいいので放っておいた。「腕くらべ」という小説は、慶應義塾大学教授を退任した荷風が1916年(大正5年)~1917年にかけて雑誌に連載し、1917年に発行された。いわば「満を持した」傑作だと思うが、発行時には1万数千語を削除していて、別に無削除版の私家版を50部作り周囲に配った。この配慮は、作中の性的シーンの描写に関するもので、戦後になってからは「私家版」が定本となっている。確かに荷風としても、当時の小説として、結構あけすけな描写があるのは事実である。
しかし、「腕くらべ」の面白さはそんなところにあるのではない。新橋芸者の世界を扱い、芸者の周囲にいる男たちを描写し、一種の「社会小説」を目指したものであると思う。舞台からして「狭い世界」を扱っているが、ある程度自由(金銭的にも、性的にも)な女性は当時芸者の世界を除いて成立していなかった。もちろん、芸者の世界には「ほんとうの自由」はない。そこには貨幣に規定された「架空の自由」しかない。それが判ったうえで、一種の「遊び」として「男と女のかけひきとだましあい」が行われる。それを自在に描くことで、フランスやイギリスの風俗小説のような味わいの小説を成り立たせている。しかも、サブ人物に面白い人が多く、余韻ある物語になっている。

荷風はこの後に書いた「おかめ笹」の方が優れていると佐藤春夫に語ったそうだけど、「おかめ笹」は確かに面白いし、他に前例のないような完全風刺小説として評価はできる。でも、登場人物の誰にも感情移入できない物語は、時代がたって風俗習慣が変わってしまうと面白みが減る。今は登場人物が面白い「腕くらべ」の方に軍配が上がるのではないか。この小説には主に銀座周辺という主舞台の他に、文人倉山南巣という副筋の重要人物が隠れ住む「根岸の里」、および「森ケ崎」という場所が重要な意味を持っている。このうち、根岸は正岡子規や林家三平で知られる町だが、今は全く面影もないので、また別の機会に散歩することにして、今回は訪ねていない。
ある日のこと、帝国劇場に行くと、吉岡は芸者駒代とばったり再会する。7年ぶりぐらい。昔の「馴染み」なのである。駒代は10代、吉岡も20代前半の学生時代に、お互いに熱をあげた間柄だった。しかし、吉岡の年齢からして「身請け」はありえない。大学を出て洋行することとなり、いつの間にか二人の間は切れてしまった。吉岡は今や30代となり、保険会社の気鋭の出世頭で、妻子を持つとともに、なじみの芸者にも一軒店を持たせている。仕事に使うためで、あえて美人の評判の立たない芸者を選んである。一方の駒代は吉岡と切れた後、20歳を過ぎて身請けの話を受け、秋田に行って老人の後妻となる。しかし、夫に死なれて、身寄りもないまま他に行くところもなく、元の新橋に戻って間もない。
再会場所の帝国劇場は、渋沢栄一らが出資し、日本にも本格的劇場をと建設されたものである。1911年完成だから、この当時は東京の最新スポットの一つだった。当時は歌舞伎なども上演し、そういう時に吉岡と駒代が行ったのだろう。ロシア革命で大量の亡命者が出た大正中期には、ロシアの本格的オペラが帝劇で長期公演した。荷風も毎日通って見たことをエッセイや日記に残している。「今日は帝劇、明日は三越」と三越のキャッチコピーがうたうように、帝劇は「東京名所」だった。
震災で崩壊し、再建されるも、昭和になると外国映画のロードショーに使われる。戦後も映画館だった時代があり「アラビアのロレンス」は帝劇で公開されたらしい。その後解体され、現在の建物は谷口吉郎設計で1966年完成。お堀端に壮麗な姿を誇り、東宝系の重要なミュージカルはほとんどここで初演された。(屋根の上のバイオリン弾き、ラ・マンチャの男、レ・ミゼラブル等々)

吉岡はさっそくその日に駒代を呼び、早業でよりを戻してしまう。(というのは、芸者と体の関係になって「なじみ」の関係を復活させることだけど、その早業ぶりは是非小説で確認を。)吉岡は身請けを持ちかけるが、駒代はありがたいとは思いつつ、秋田での経験から「男が死んだり心変わりしたら女には生きていくすべがない現実」を深く知ってしまった。ある日、吉岡と遠出するつもりで雨の日なので、森ケ崎にある置屋の別荘にこもることになる。翌朝、吉岡は仕事で早出してしまい、残った駒代はたまたま来ていた歌舞伎役者瀬川一糸と出会い、もともとファンだったこともあり関係が出来てしまう。
この「森ケ崎」ってどこだ。全く判らない。架空の地名か。湘南あたりの地名かと思って調べてみたら東京都大田区にあった。JRの駅からは遠いが、大森駅の東南のあたり。東京労災病院のあたりである。競艇場や温泉がある「平和島」から南に少し行ったあたり。今東京で「海を感じる」ためにこのあたりを思い浮かべる人は誰もいないだろう。でも、大正時代にはこの森ケ崎(地名では大森東)が東京に一番近い行楽地として栄えたのである。鉱泉が湧き、海辺の旅館が立ち並び、府下で一番の温泉地として有名だったらしい。当時は東京府荏原郡大森町である。労災病院近くの大森寺(だいしんじ)に、鉱泉の碑があった。(碑は逆光で見えにくかった。三枚目の小さな寺が大森寺。)

森ケ崎には今、「森ケ崎水再生センター」が作られ、その上が森ケ崎公園になっている。公園には見晴らし台があり、かろうじて海が遠望できなくもない。対岸が東京港野鳥公園で、羽田にも近い。そんなロケーションである。近くには森ケ崎観音という寺もあり、昔は海辺で栄えていた歴史を物語っている。

いや、そんな場所が都内にあったとはビックリの発見である。物語はこの後、瀬川に傾く駒代に対し、瀬川と吉岡はどう対応するのか、他の芸者はどうするかと「腕くらべ」の読みどころ。しかし、その男たちの気風の変わりようを年長世代の声を借りて批判するのである。荷風からすれば、明治が終わり、気風は変わってしまった。まさに「第一次世界大戦下の物語」だった。日本の「成金時代」、アメリカで言う「金メッキ時代」のような頃だった。駒代は芸者である以上、客の要望に応えないわけに行かない、その悲しさ。男は男でまた、様々な思惑で芸者と付き合う。いい大人が単なる恋愛感情のみで動くわけにもいかないのである。かくして、新富座で瀬川一糸の公演が始まる。駒代にとっても腕の振るいどころだが、そこですべてが発覚してしまう。そんな時に置屋の女将も倒れてしまい…。
さて、その舞台となる新富座だけど、もう今はなき歌舞伎劇場である。守田座が焼け、新富町に移って1876年に開場した。明治の歌舞伎黄金時代を支えた劇場だけど、震災で被災したあと復活出来なかった。現在は京橋税務署と東京都中央都税事務所が建っていて、そこに説明のプレートが立っている。近くに役者用の足袋で有名な大野屋という店が古い風情で残っていて、明治の情緒をちょっと感じさせる。
しかし、「腕くらべ」の面白さはそんなところにあるのではない。新橋芸者の世界を扱い、芸者の周囲にいる男たちを描写し、一種の「社会小説」を目指したものであると思う。舞台からして「狭い世界」を扱っているが、ある程度自由(金銭的にも、性的にも)な女性は当時芸者の世界を除いて成立していなかった。もちろん、芸者の世界には「ほんとうの自由」はない。そこには貨幣に規定された「架空の自由」しかない。それが判ったうえで、一種の「遊び」として「男と女のかけひきとだましあい」が行われる。それを自在に描くことで、フランスやイギリスの風俗小説のような味わいの小説を成り立たせている。しかも、サブ人物に面白い人が多く、余韻ある物語になっている。

荷風はこの後に書いた「おかめ笹」の方が優れていると佐藤春夫に語ったそうだけど、「おかめ笹」は確かに面白いし、他に前例のないような完全風刺小説として評価はできる。でも、登場人物の誰にも感情移入できない物語は、時代がたって風俗習慣が変わってしまうと面白みが減る。今は登場人物が面白い「腕くらべ」の方に軍配が上がるのではないか。この小説には主に銀座周辺という主舞台の他に、文人倉山南巣という副筋の重要人物が隠れ住む「根岸の里」、および「森ケ崎」という場所が重要な意味を持っている。このうち、根岸は正岡子規や林家三平で知られる町だが、今は全く面影もないので、また別の機会に散歩することにして、今回は訪ねていない。
ある日のこと、帝国劇場に行くと、吉岡は芸者駒代とばったり再会する。7年ぶりぐらい。昔の「馴染み」なのである。駒代は10代、吉岡も20代前半の学生時代に、お互いに熱をあげた間柄だった。しかし、吉岡の年齢からして「身請け」はありえない。大学を出て洋行することとなり、いつの間にか二人の間は切れてしまった。吉岡は今や30代となり、保険会社の気鋭の出世頭で、妻子を持つとともに、なじみの芸者にも一軒店を持たせている。仕事に使うためで、あえて美人の評判の立たない芸者を選んである。一方の駒代は吉岡と切れた後、20歳を過ぎて身請けの話を受け、秋田に行って老人の後妻となる。しかし、夫に死なれて、身寄りもないまま他に行くところもなく、元の新橋に戻って間もない。
再会場所の帝国劇場は、渋沢栄一らが出資し、日本にも本格的劇場をと建設されたものである。1911年完成だから、この当時は東京の最新スポットの一つだった。当時は歌舞伎なども上演し、そういう時に吉岡と駒代が行ったのだろう。ロシア革命で大量の亡命者が出た大正中期には、ロシアの本格的オペラが帝劇で長期公演した。荷風も毎日通って見たことをエッセイや日記に残している。「今日は帝劇、明日は三越」と三越のキャッチコピーがうたうように、帝劇は「東京名所」だった。
震災で崩壊し、再建されるも、昭和になると外国映画のロードショーに使われる。戦後も映画館だった時代があり「アラビアのロレンス」は帝劇で公開されたらしい。その後解体され、現在の建物は谷口吉郎設計で1966年完成。お堀端に壮麗な姿を誇り、東宝系の重要なミュージカルはほとんどここで初演された。(屋根の上のバイオリン弾き、ラ・マンチャの男、レ・ミゼラブル等々)

吉岡はさっそくその日に駒代を呼び、早業でよりを戻してしまう。(というのは、芸者と体の関係になって「なじみ」の関係を復活させることだけど、その早業ぶりは是非小説で確認を。)吉岡は身請けを持ちかけるが、駒代はありがたいとは思いつつ、秋田での経験から「男が死んだり心変わりしたら女には生きていくすべがない現実」を深く知ってしまった。ある日、吉岡と遠出するつもりで雨の日なので、森ケ崎にある置屋の別荘にこもることになる。翌朝、吉岡は仕事で早出してしまい、残った駒代はたまたま来ていた歌舞伎役者瀬川一糸と出会い、もともとファンだったこともあり関係が出来てしまう。
この「森ケ崎」ってどこだ。全く判らない。架空の地名か。湘南あたりの地名かと思って調べてみたら東京都大田区にあった。JRの駅からは遠いが、大森駅の東南のあたり。東京労災病院のあたりである。競艇場や温泉がある「平和島」から南に少し行ったあたり。今東京で「海を感じる」ためにこのあたりを思い浮かべる人は誰もいないだろう。でも、大正時代にはこの森ケ崎(地名では大森東)が東京に一番近い行楽地として栄えたのである。鉱泉が湧き、海辺の旅館が立ち並び、府下で一番の温泉地として有名だったらしい。当時は東京府荏原郡大森町である。労災病院近くの大森寺(だいしんじ)に、鉱泉の碑があった。(碑は逆光で見えにくかった。三枚目の小さな寺が大森寺。)




森ケ崎には今、「森ケ崎水再生センター」が作られ、その上が森ケ崎公園になっている。公園には見晴らし台があり、かろうじて海が遠望できなくもない。対岸が東京港野鳥公園で、羽田にも近い。そんなロケーションである。近くには森ケ崎観音という寺もあり、昔は海辺で栄えていた歴史を物語っている。




いや、そんな場所が都内にあったとはビックリの発見である。物語はこの後、瀬川に傾く駒代に対し、瀬川と吉岡はどう対応するのか、他の芸者はどうするかと「腕くらべ」の読みどころ。しかし、その男たちの気風の変わりようを年長世代の声を借りて批判するのである。荷風からすれば、明治が終わり、気風は変わってしまった。まさに「第一次世界大戦下の物語」だった。日本の「成金時代」、アメリカで言う「金メッキ時代」のような頃だった。駒代は芸者である以上、客の要望に応えないわけに行かない、その悲しさ。男は男でまた、様々な思惑で芸者と付き合う。いい大人が単なる恋愛感情のみで動くわけにもいかないのである。かくして、新富座で瀬川一糸の公演が始まる。駒代にとっても腕の振るいどころだが、そこですべてが発覚してしまう。そんな時に置屋の女将も倒れてしまい…。
さて、その舞台となる新富座だけど、もう今はなき歌舞伎劇場である。守田座が焼け、新富町に移って1876年に開場した。明治の歌舞伎黄金時代を支えた劇場だけど、震災で被災したあと復活出来なかった。現在は京橋税務署と東京都中央都税事務所が建っていて、そこに説明のプレートが立っている。近くに役者用の足袋で有名な大野屋という店が古い風情で残っていて、明治の情緒をちょっと感じさせる。



