ひと月ほど前に、埼玉県さいたま市大宮区の公民館で、ある問題が起こった。そこの公民館では月報「公民館だより」を発行して、活動している諸団体の活動を紹介している。俳句教室も活動していて、会員が互選して選んだ「今月の一句」を「公民館だより」に掲載することになっていた。ところが7月号(6月30日発行)には、会員が選んだ俳句が掲載されなかったのである。発行前に「公民館の意見と誤解される恐れがあり、掲載できない」と俳句教室に連絡があったのである。このことは7月4日の東京新聞が大きく報じ、他紙も後から報じた。
その一句とはどのようなものかと言うと、次のようなものである。
梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
この問題は小さいようでいて、現在の日本社会を鋭く照らし出すような問題だと思って、当日のFacebookには紹介しておいた。ここで書かなかったのは、新聞に掲載されたことで「いずれ掲載されることになり、一応の落着となるだろう」と思ったからである。日本社会では「誤解される恐れ」があって「自主規制」されても、そのことが大きく報じられて批判されると、一転して「断り書きを付けて何となく解決したように見せる」ことが多い。とりあえず掲載されれば、まあそれでいいのではないかと思ったのである。
ところがさいたま市教委は、今後も掲載しないと言い続けている。清水市長も「(掲載拒否は)おおむね適正だ」などと語っている。そして29日になって、さいたま市の稲葉康久教育長は「今後も掲載しない」と記者会見で語った。「世論を二分しているものは月報にそぐわない」というのである。どうも今後も固く不掲載を続ける意思のようなので、一体そのことはどういう意味があるのかを考えておきたいと思うのである。「公民館のあり方」に関しては次回に書き、今日はまず「俳句の表現」と「世論を二分する」の意味を考えたいと思う。
さて、先の俳句はそもそも「世論を二分しているもの」なのだろうか。僕も公民館の月報という性格から、あまりに一方的な意見の開陳、政治的・宗教的な立場の表明などはふさわしくないだろうと思う。たとえば「郷土史研究グループ」の活動紹介に「原発や集団的自衛権などに関する勉強もしています」とあったら、「郷土史には関係ないだろう」と思う。だから書き直しを頼んでみてもいいだろう。でも「誰でも参加できる読書会」というグループがあり、「最近は原発に関する本を読んでいます」というのはどうだろう。事実そういう本をまとめて読んでいるんだとしたら、原発に関心を持っていない人は来ない方がいいんだから、書いておいた方が親切な情報だろう。そして、そういう原発学習グループが公民館で活動するのも、もちろんあっていいい、というかむしろ望ましいことである。
先の俳句は70代女性の作句で、新聞記事によれば、6月に女性のデモを実際に見て詠んだという話である。本人は確かに「護憲を訴える俳句」というつもりで作ったらしい。だから「世論を二分する問題」だと市長や教育長がとらえたのは、「正確な読解」というべきかもしれない。「梅雨空」と「女性」の対比で、うっとうしい気分がデモを見て晴れたと読解するのが普通かもしれない。しかし、論文やエッセイではなく、さらに短歌より14文字も少ない俳句では、表現できる余地が少ない。現に時事問題を扱った短歌が多いことで知られる朝日新聞の朝日歌壇に対し、同頁に掲載される俳句欄では時事俳句がほとんどない。この俳句もベースは「写生」であって、解釈は読者にゆだねられているというべきではないか。梅雨空の下で女性のデモに出会い、ますます気分が晴れなくなったと改憲派が解釈しても間違った解釈だと言えるのだろうか。
日本国憲法第9条に関しては、言うまでもなく護憲、改憲の意見がある。だから、憲法改正の是非に関しては「世論を二分する」のは間違いないけれど、この俳句そのものは意見を言っているわけではない。それは俳句という芸術表現である以上、当然のことである。憲法に関して意見を言いたいなら、新聞に投稿するなり他にやるべきことがある。この人が詠んだ俳句は、たまたま9条を守れというデモに出会って、本人の考えや感情に近かったのだろう、そのときの共感を詠んだというだけのことである。しかも、17文字しかないから解釈はある程度の多義性がある。これを「世論を二分している」問題を扱ったというのが適当とは思えないのである。
これが掲載するのに不適当な俳句だというなら、どういう内容ならいいのだろうか。
梅雨空に「原発ゼロ」の女性デモ →これももちろんダメだろう。
梅雨空に「日韓断交」叫ぶデモ →これももちろんダメ。ちなみにこういうバカげた主張をするデモをする人もいるらしい。その「ヘイトスピーチ」問題は別にして、こういう言葉に変えてみれば、この場合は「梅雨空」が効いて、デモを批判する方向で作った句のように感じないだろうか。デモの主張に賛同して作った句と考えるだろうか。
では、何ならいいのか。というか「世論を二分しない問題」とは何だろうか。所詮俳句なんだから、季節の移り変わりだけ詠んでいればいいということか。しかし、俳句教室に通う人が詠む、そして皆で選ぶ俳句を権力者の側で規制していいのだろうか。季節の句と言っても、次の場合はどうか。
冷房を付けずガマンの猛暑かな
暑さを避ける工夫をした家で扇風機を使っている場合かもしれないけど、これも「熱中症を招く恐れがある」から「掲載にふさわしくない」とされるのだろうか。
東京五輪には歓迎する世論の方が多いようだけど、反対する人(たとえば自分はそっち)もいるんだから、さいたま市の公民館では触れることができないはずだろう。
さいたま市と言えば、(大阪と並んで)Jリーグに加盟するチームが複数ある都市である。この問題が起こった公民館は大宮区だというから、大宮アルディージャのファンが多いことだろう。公民館で活動する子供グループなんかにもアルディージャファンが多いのではないか。しかし、さいたま市の予算で発行する月報という立場から言えば、さいたま市には浦和レッズもあるわけで、どちらかのファンに偏った記事は掲載できないとなるはずである。「さいたま市のサッカーファンの世論を二分する」問題に違いないからである。
まあ、「いじめをなくそう」とか「振り込め詐欺を防ごう」というのなら「世論を二分する」ことはないだろうけど(まさか振り込め詐欺グループが抗議してくるなんてことはないだろう)、そういった行政や警察の広報と同じことしか掲載するなということなのだろうか。もしかして、「市民の自由な創作活動」をなくすことが狙いであって、公民館だよりというものも「行政広報」であればいいと思っているのではないか。そういう発想があるから、「この句は問題だ」と考えるのではないか。しかし、俳句教室参加者が互選しちゃったんだから、細かいことは言わず、「俳句教室で選んだものです」と断りを付けて掲載するという「オトナのふるまい」ということさえ、もう出来ない世の中になっているのか。もう一度書くけど「世論を二分しない問題」というのは何なのだろうか。そして、どうして俳句を作る時に「世論を二分しない問題」しか扱ってはいけないのだろうか。普通に考えていて、判る人はいないんではないかと思うのだが。
その一句とはどのようなものかと言うと、次のようなものである。
梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
この問題は小さいようでいて、現在の日本社会を鋭く照らし出すような問題だと思って、当日のFacebookには紹介しておいた。ここで書かなかったのは、新聞に掲載されたことで「いずれ掲載されることになり、一応の落着となるだろう」と思ったからである。日本社会では「誤解される恐れ」があって「自主規制」されても、そのことが大きく報じられて批判されると、一転して「断り書きを付けて何となく解決したように見せる」ことが多い。とりあえず掲載されれば、まあそれでいいのではないかと思ったのである。
ところがさいたま市教委は、今後も掲載しないと言い続けている。清水市長も「(掲載拒否は)おおむね適正だ」などと語っている。そして29日になって、さいたま市の稲葉康久教育長は「今後も掲載しない」と記者会見で語った。「世論を二分しているものは月報にそぐわない」というのである。どうも今後も固く不掲載を続ける意思のようなので、一体そのことはどういう意味があるのかを考えておきたいと思うのである。「公民館のあり方」に関しては次回に書き、今日はまず「俳句の表現」と「世論を二分する」の意味を考えたいと思う。
さて、先の俳句はそもそも「世論を二分しているもの」なのだろうか。僕も公民館の月報という性格から、あまりに一方的な意見の開陳、政治的・宗教的な立場の表明などはふさわしくないだろうと思う。たとえば「郷土史研究グループ」の活動紹介に「原発や集団的自衛権などに関する勉強もしています」とあったら、「郷土史には関係ないだろう」と思う。だから書き直しを頼んでみてもいいだろう。でも「誰でも参加できる読書会」というグループがあり、「最近は原発に関する本を読んでいます」というのはどうだろう。事実そういう本をまとめて読んでいるんだとしたら、原発に関心を持っていない人は来ない方がいいんだから、書いておいた方が親切な情報だろう。そして、そういう原発学習グループが公民館で活動するのも、もちろんあっていいい、というかむしろ望ましいことである。
先の俳句は70代女性の作句で、新聞記事によれば、6月に女性のデモを実際に見て詠んだという話である。本人は確かに「護憲を訴える俳句」というつもりで作ったらしい。だから「世論を二分する問題」だと市長や教育長がとらえたのは、「正確な読解」というべきかもしれない。「梅雨空」と「女性」の対比で、うっとうしい気分がデモを見て晴れたと読解するのが普通かもしれない。しかし、論文やエッセイではなく、さらに短歌より14文字も少ない俳句では、表現できる余地が少ない。現に時事問題を扱った短歌が多いことで知られる朝日新聞の朝日歌壇に対し、同頁に掲載される俳句欄では時事俳句がほとんどない。この俳句もベースは「写生」であって、解釈は読者にゆだねられているというべきではないか。梅雨空の下で女性のデモに出会い、ますます気分が晴れなくなったと改憲派が解釈しても間違った解釈だと言えるのだろうか。
日本国憲法第9条に関しては、言うまでもなく護憲、改憲の意見がある。だから、憲法改正の是非に関しては「世論を二分する」のは間違いないけれど、この俳句そのものは意見を言っているわけではない。それは俳句という芸術表現である以上、当然のことである。憲法に関して意見を言いたいなら、新聞に投稿するなり他にやるべきことがある。この人が詠んだ俳句は、たまたま9条を守れというデモに出会って、本人の考えや感情に近かったのだろう、そのときの共感を詠んだというだけのことである。しかも、17文字しかないから解釈はある程度の多義性がある。これを「世論を二分している」問題を扱ったというのが適当とは思えないのである。
これが掲載するのに不適当な俳句だというなら、どういう内容ならいいのだろうか。
梅雨空に「原発ゼロ」の女性デモ →これももちろんダメだろう。
梅雨空に「日韓断交」叫ぶデモ →これももちろんダメ。ちなみにこういうバカげた主張をするデモをする人もいるらしい。その「ヘイトスピーチ」問題は別にして、こういう言葉に変えてみれば、この場合は「梅雨空」が効いて、デモを批判する方向で作った句のように感じないだろうか。デモの主張に賛同して作った句と考えるだろうか。
では、何ならいいのか。というか「世論を二分しない問題」とは何だろうか。所詮俳句なんだから、季節の移り変わりだけ詠んでいればいいということか。しかし、俳句教室に通う人が詠む、そして皆で選ぶ俳句を権力者の側で規制していいのだろうか。季節の句と言っても、次の場合はどうか。
冷房を付けずガマンの猛暑かな
暑さを避ける工夫をした家で扇風機を使っている場合かもしれないけど、これも「熱中症を招く恐れがある」から「掲載にふさわしくない」とされるのだろうか。
東京五輪には歓迎する世論の方が多いようだけど、反対する人(たとえば自分はそっち)もいるんだから、さいたま市の公民館では触れることができないはずだろう。
さいたま市と言えば、(大阪と並んで)Jリーグに加盟するチームが複数ある都市である。この問題が起こった公民館は大宮区だというから、大宮アルディージャのファンが多いことだろう。公民館で活動する子供グループなんかにもアルディージャファンが多いのではないか。しかし、さいたま市の予算で発行する月報という立場から言えば、さいたま市には浦和レッズもあるわけで、どちらかのファンに偏った記事は掲載できないとなるはずである。「さいたま市のサッカーファンの世論を二分する」問題に違いないからである。
まあ、「いじめをなくそう」とか「振り込め詐欺を防ごう」というのなら「世論を二分する」ことはないだろうけど(まさか振り込め詐欺グループが抗議してくるなんてことはないだろう)、そういった行政や警察の広報と同じことしか掲載するなということなのだろうか。もしかして、「市民の自由な創作活動」をなくすことが狙いであって、公民館だよりというものも「行政広報」であればいいと思っているのではないか。そういう発想があるから、「この句は問題だ」と考えるのではないか。しかし、俳句教室参加者が互選しちゃったんだから、細かいことは言わず、「俳句教室で選んだものです」と断りを付けて掲載するという「オトナのふるまい」ということさえ、もう出来ない世の中になっているのか。もう一度書くけど「世論を二分しない問題」というのは何なのだろうか。そして、どうして俳句を作る時に「世論を二分しない問題」しか扱ってはいけないのだろうか。普通に考えていて、判る人はいないんではないかと思うのだが。