二兎社公演、永井愛の作・演出「鷗外の怪談」をさっそく見た。(10月26日まで。池袋の東京芸術劇場シアターウェスト。その後全国各地で上演。)
永井愛さんの新作は出来るだけ見たいと思っている。前作「兄帰る」は書かなかったけど、その前の「こんばんは、父さん」はこのブログで記事を書いた。関心がある劇作家は何人もいるけど、あまり作品が多いと見に行けない。永井愛の新作公演は、まあ1年に一作だから見に行こうかと思う。でも近代日本の文豪と言えば、大体井上ひさしが芝居にしてしまった感じ。そう言えば鷗外はなかったかなあ。でも、鷗外さんは陸軍軍医総監だからエライ人だ。啄木とか賢治とか、あるいは太宰治とか、本質はともかく、現世的には出世できそうもない偉くない人の方が井上ひさしの好みに合いそうだ。じゃあ、一体永井愛さんは鷗外のどこを書くのかなあ、しかも「怪談」ですよ、階段じゃくなて。
ところが劇場でもらったパンフを見ると、登場人物に永井荷風が出てくるではないか。大逆事件当時の鷗外を描くということで、新宮のドクトル大石もセリフの中に出てくる。ブログで書いた辻原登の傑作「許されざる者」のモデルになった人物である。今年、ブログでいっぱい書いた辻原登、永井荷風、そして集団的自衛権問題などが全部絡んでくるようなお芝居で、非常に面白かった。知的に興奮し、「いまを生きる」とはどういうことかという問いが全面を覆う優れたドラマだと思う。妻と母、友人や弟子との間で引き裂かれ苦しむ鷗外の姿は、現代を生きるわれわれの姿そのもので、感動した。ドクトル大石の存在は、まさに「隠し味」で、その場面には落涙必至。
この劇は、最初から最後まで、「観潮楼の2階」で展開する。「観潮楼」とは鷗外が文京区千駄木に建てた家のことだが、今は鷗外記念館になっている。昔はその場所から東京湾が見えたのだという。そこに妻や母親はもちろん、さまざまの人が鷗外を訪ねてくる。大逆事件の弁護人を務めた歌人、小説家の平出修(ひらいで・しゅう)はその一人。雑誌「スバル」(鷗外が「ヰタ・セクスアリス」を発表し発禁になった)の編集のためと称して、大逆事件の弁護方針を相談に来る。一方、鷗外関係の文章にはいつも登場する友人の医者、賀古鶴所(かこ・つるど)は鷗外と元老山縣有朋をつなぐ立場で登場し、大逆事件の罪刑を内々に相談する秘密会合への参加を求める。はたまた鷗外の推挙で慶應に職を得た永井荷風も「三田文学」の編集の相談で顔を出すが、新橋芸者八重次(文学芸者と言われている)をめぐり「遊び人」とからかわれている。
こうして、このドラマでは、森鷗外を大逆事件をめぐって、「助けたい側」「罰したい側」の双方から、相談を持ちかけられる存在として描いている。それが実際の話かどうかは知らないけれど、双方に知り合いがいたことは事実であり、「憂慮する保守的知識人」という鷗外の立場そのものは現実のものだろう。また市ヶ谷監獄の裏手に住み毎日幸徳らを意識せざるを得ない「西欧を知る知識人」荷風の目を通して、当時の日本の状況が相対化されている。このように場は「観潮楼2階」に極限されながらも、明治の日本のすべてが詰まったような「思想の現場」である。
と言っても、現実の人間は毎日仕事や家庭生活に追われている。鴎外はドイツから追ってきたエリス(「舞姫」に描かれた)と別れ(させられ)た後、結婚して長男於菟(オト)が生まれるが、すぐに離婚。その後、18歳年下の志げと再婚、後に文筆活動を行う茉莉(マリ)、杏奴(アンヌ)が生まれた。その下の次男は亡くなるが、三男となる類(ルイ)を身ごもっているのが、この劇の時代。(鷗外の子どもは、このように皆、日本人離れした名前を付けられた。)妻は夫にならって文筆活動も行い、そのことをめぐり姑(鷗外の母、峰)といさかいが絶えない。この嫁姑のいさかいがコミカルに描かれ、劇を進行させる役割をになっている。母は昔、津和野でキリシタン弾圧(長崎の浦上のキリシタン信者が流刑された「浦上四番崩れ」)を記憶していて、お上に逆らう恐ろしさが身に染みている。母も友人賀古も、出世の恩人山縣公を大切にせよと鷗外に迫る。しかし、鷗外はそのキリシタンも今では禁制は解かれている、思想は国家が統制するものではないと考えて、寓意的には批判しているのだが…。
こうして、12月に特別法廷が始まり、クリスマスと新年をはさんで、暗い閉塞の年明けがやってくる。いよいよ判決を迎え、人々はどうしたか。深夜に山縣公に意見具申をしようと考える鷗外。国がおかしくなってしまうのではないか、そう思われる危機の時点に「体制内」で生きる者はどう生きることができるのか?これは多くの日本人にとって、「いまを生きるとはどういうことか」という問いそのものだろう。森家ではどうなったのかは舞台を見て考えてもらうとして…。僕には我々は後世に向け言うべきことは言って行かないといけないと勇気づけられる舞台に思えた。その時代の国家権力に通じないことであれ、100年後の人に勇気を与えることもあるのだから。
この劇には、鷗外、妻志げ、母峰、平出修、永井荷風、賀古鶴所の実在人物6人に加えて、新宮出身という設定の序中スエというただ一人実在しない人物が出てくる。都合7人、全員二兎社初出場で、鷗外役金田明夫、美人妻の水崎綾女も悪くないけど、母親役の大方斐紗子が素晴らしい存在感。どこかで見たなあと思ったら、園子温監督「恋の罪」の「殺される大学教授」の母親をやっていた人である。この家族と女中の掛け合いが面白く、決して思想劇という感じではなく、むしろ永井愛の得意とする家族劇のコメディとして完成度が高い。その部分と思想劇の部分がちょっと整合していない部分もあるかと思うが、それが今に続く「日本の知識人の現実生活」でもある。鷗外の家でクリスマス会が行われ、母親も嫌々ながら孫相手に楽しみにしている。そこに荷風が来て手伝わされるが、ツリーに付ける星が何度やっても落ちてしまう。それがおかしいが、荷風の、つまりは「欧州好きの知識人の不器用」が大逆事件後にどうなるか、まったく他人ごとではない。100年前の話を見て「まるで今のようだ」と思うというのも、悲しい話である。普段はあまり演劇を見ないような人にこそおススメ。
永井愛さんの新作は出来るだけ見たいと思っている。前作「兄帰る」は書かなかったけど、その前の「こんばんは、父さん」はこのブログで記事を書いた。関心がある劇作家は何人もいるけど、あまり作品が多いと見に行けない。永井愛の新作公演は、まあ1年に一作だから見に行こうかと思う。でも近代日本の文豪と言えば、大体井上ひさしが芝居にしてしまった感じ。そう言えば鷗外はなかったかなあ。でも、鷗外さんは陸軍軍医総監だからエライ人だ。啄木とか賢治とか、あるいは太宰治とか、本質はともかく、現世的には出世できそうもない偉くない人の方が井上ひさしの好みに合いそうだ。じゃあ、一体永井愛さんは鷗外のどこを書くのかなあ、しかも「怪談」ですよ、階段じゃくなて。
ところが劇場でもらったパンフを見ると、登場人物に永井荷風が出てくるではないか。大逆事件当時の鷗外を描くということで、新宮のドクトル大石もセリフの中に出てくる。ブログで書いた辻原登の傑作「許されざる者」のモデルになった人物である。今年、ブログでいっぱい書いた辻原登、永井荷風、そして集団的自衛権問題などが全部絡んでくるようなお芝居で、非常に面白かった。知的に興奮し、「いまを生きる」とはどういうことかという問いが全面を覆う優れたドラマだと思う。妻と母、友人や弟子との間で引き裂かれ苦しむ鷗外の姿は、現代を生きるわれわれの姿そのもので、感動した。ドクトル大石の存在は、まさに「隠し味」で、その場面には落涙必至。
この劇は、最初から最後まで、「観潮楼の2階」で展開する。「観潮楼」とは鷗外が文京区千駄木に建てた家のことだが、今は鷗外記念館になっている。昔はその場所から東京湾が見えたのだという。そこに妻や母親はもちろん、さまざまの人が鷗外を訪ねてくる。大逆事件の弁護人を務めた歌人、小説家の平出修(ひらいで・しゅう)はその一人。雑誌「スバル」(鷗外が「ヰタ・セクスアリス」を発表し発禁になった)の編集のためと称して、大逆事件の弁護方針を相談に来る。一方、鷗外関係の文章にはいつも登場する友人の医者、賀古鶴所(かこ・つるど)は鷗外と元老山縣有朋をつなぐ立場で登場し、大逆事件の罪刑を内々に相談する秘密会合への参加を求める。はたまた鷗外の推挙で慶應に職を得た永井荷風も「三田文学」の編集の相談で顔を出すが、新橋芸者八重次(文学芸者と言われている)をめぐり「遊び人」とからかわれている。
こうして、このドラマでは、森鷗外を大逆事件をめぐって、「助けたい側」「罰したい側」の双方から、相談を持ちかけられる存在として描いている。それが実際の話かどうかは知らないけれど、双方に知り合いがいたことは事実であり、「憂慮する保守的知識人」という鷗外の立場そのものは現実のものだろう。また市ヶ谷監獄の裏手に住み毎日幸徳らを意識せざるを得ない「西欧を知る知識人」荷風の目を通して、当時の日本の状況が相対化されている。このように場は「観潮楼2階」に極限されながらも、明治の日本のすべてが詰まったような「思想の現場」である。
と言っても、現実の人間は毎日仕事や家庭生活に追われている。鴎外はドイツから追ってきたエリス(「舞姫」に描かれた)と別れ(させられ)た後、結婚して長男於菟(オト)が生まれるが、すぐに離婚。その後、18歳年下の志げと再婚、後に文筆活動を行う茉莉(マリ)、杏奴(アンヌ)が生まれた。その下の次男は亡くなるが、三男となる類(ルイ)を身ごもっているのが、この劇の時代。(鷗外の子どもは、このように皆、日本人離れした名前を付けられた。)妻は夫にならって文筆活動も行い、そのことをめぐり姑(鷗外の母、峰)といさかいが絶えない。この嫁姑のいさかいがコミカルに描かれ、劇を進行させる役割をになっている。母は昔、津和野でキリシタン弾圧(長崎の浦上のキリシタン信者が流刑された「浦上四番崩れ」)を記憶していて、お上に逆らう恐ろしさが身に染みている。母も友人賀古も、出世の恩人山縣公を大切にせよと鷗外に迫る。しかし、鷗外はそのキリシタンも今では禁制は解かれている、思想は国家が統制するものではないと考えて、寓意的には批判しているのだが…。
こうして、12月に特別法廷が始まり、クリスマスと新年をはさんで、暗い閉塞の年明けがやってくる。いよいよ判決を迎え、人々はどうしたか。深夜に山縣公に意見具申をしようと考える鷗外。国がおかしくなってしまうのではないか、そう思われる危機の時点に「体制内」で生きる者はどう生きることができるのか?これは多くの日本人にとって、「いまを生きるとはどういうことか」という問いそのものだろう。森家ではどうなったのかは舞台を見て考えてもらうとして…。僕には我々は後世に向け言うべきことは言って行かないといけないと勇気づけられる舞台に思えた。その時代の国家権力に通じないことであれ、100年後の人に勇気を与えることもあるのだから。
この劇には、鷗外、妻志げ、母峰、平出修、永井荷風、賀古鶴所の実在人物6人に加えて、新宮出身という設定の序中スエというただ一人実在しない人物が出てくる。都合7人、全員二兎社初出場で、鷗外役金田明夫、美人妻の水崎綾女も悪くないけど、母親役の大方斐紗子が素晴らしい存在感。どこかで見たなあと思ったら、園子温監督「恋の罪」の「殺される大学教授」の母親をやっていた人である。この家族と女中の掛け合いが面白く、決して思想劇という感じではなく、むしろ永井愛の得意とする家族劇のコメディとして完成度が高い。その部分と思想劇の部分がちょっと整合していない部分もあるかと思うが、それが今に続く「日本の知識人の現実生活」でもある。鷗外の家でクリスマス会が行われ、母親も嫌々ながら孫相手に楽しみにしている。そこに荷風が来て手伝わされるが、ツリーに付ける星が何度やっても落ちてしまう。それがおかしいが、荷風の、つまりは「欧州好きの知識人の不器用」が大逆事件後にどうなるか、まったく他人ごとではない。100年前の話を見て「まるで今のようだ」と思うというのも、悲しい話である。普段はあまり演劇を見ないような人にこそおススメ。