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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

村上春樹は受賞するのか-ノーベル賞③

2014年10月15日 22時59分47秒 | 社会(世の中の出来事)
 毎年のように、村上春樹(1949~)がノーベル文学賞の有力候補だと報じられるようになって、もう何年も経つ。文学賞発表日に村上春樹ファン(今は「ハルキスト」と言うらしい)が集まるカフェがあり、7時のNHKニュースがそこに集う人々を報じるのも、今や「秋の風物詩」である。一体、村上春樹がノーベル賞を受賞する日は来るのだろうか?この問題を今回は考えてみたい。

 ところで、最初に書いてしまうけど、結論的には「わからない」としか言いようがない。そもそも候補に上っているのかも明らかではない。これは他の候補の場合も同じで、選考はすべて秘密である。しかし、自然科学系の場合は業績評価がある程度はっきりしているのに対し、文学賞はその性格からしても「誰が受賞するかは判らない」。自然科学系の場合はほんの少しの間違いはあったとしても、おおむね「受賞した人は受賞するべき人だった」と言えるだろう。でも、文学賞の場合は、何十年も経つうちに忘れられてしまい、今や全く読まれない人が多数いる。半分が正当な受賞者で、残りの半分は「疑問付き受賞者」と言っても過言ではない。大体、第一回受賞者は誰かと調べると、当時まだ存命だったトルストイが有力視されながら、その思想が忌避されてフランスの詩人シュリ・プリュドムという詩人が選ばれた。誰だ、それ?

 ということで、プルーストジョイスナボコフボルヘスも、フォースターリルケD・H・ロレンスモームモラヴィアも受賞していない。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、アルベルト・モラヴィアなどは、有名過ぎて世界中で売れているからノーベル賞が通り過ぎて行ったと言われている。そのことを考えると、世界中で大人気作家になっている村上春樹は、そのことが授賞には不利に働くのではないかと思われる。何も今さらノーベル賞をあげなくても、すでにみんな読んでいるじゃないかと選考委員は考えるんだろうか。文学史的に言えば、ノーベル賞は名誉は名誉だけど、特に文学者にとって最高の目標であるとは誰も思っていないだろう。

 「地域的な配慮」はあるのだろうか?ノーベル文学賞の受賞者を見てみれば一目瞭然、英仏独のヨーロッパの強国言語の作家が圧倒的に多い。ラテンアメリカの受賞が多くなったので、スペイン語も多い。地元のスウェーデン語の作家・詩人もかなり多い。ワールドカップの大陸回り持ちのような決まった法則はないけれど、言語的に見てみると、創作言語が英仏独西以外の人は10年間に3人程度ではないか。そのうち一人はヨーロッパの少数言語。非欧米系言語は10年に一人か二人。と見てくると、2006年のオルハン・パムク(トルコ)と2012年の莫言(中国)とすでに二人の受賞者がいることも不利に働く可能性がある。しかし、村上春樹は民族的伝統で売る作家ではないので、別に関係ないのかもしれない。その辺は選考委員会の情報が公開される何十年か先にならないと判らない。

 と言うことで、まとめてみると、少なくとも来年、再来年の受賞は可能性が低いのではないだろうか。そして、それでいいのだろうと僕は思う。この10年ほどで、選考委員会はドリス・レッシング、ル=クレジオ、バルガス=リョサら、もうすでにノーベル賞は回ってこないのではないと思われていた作家に授与するという決定を行った。そのことを考えると、村上春樹より先に授賞させるべき重要な作家はもっといるのではないか。僕が思うに、重要性と知名度、影響力からいって、ケニアのグギ・ワ・ジオンゴ(アメリカ在住)とチェコ(フランス在住で、近年は仏語で創作)のミラン・クンデラは落とすすべきではないと思う。

 僕は村上春樹を1980年の「1973年のピンボール」以来、主要作品はずっと同時代的に読んできた。そして、2001年の「海辺のカフカ」を読んだときに、村上春樹はいつかノーベル賞を取るのではないかと感じた。そう言う意味では、僕は村上春樹ファンでもあるし、村上春樹がノーベル賞を取るべきではないかと考えている人間である。でも、本人はそれほど気にしてはいないのではないか。候補と言われてからも、ノーベル賞狙い的な作品は特に書いていない。むしろ、恋愛短編集やジャズの本、チャンドラーの翻訳なんかばかりしているような感じである。マラソンと同じく、精神の平衡を維持するためでもあるんだろうけど、社会的な発言を行う「大作家」みたいな風貌はほとんど見せていない。(時に片鱗を感じることはあるが。)村上春樹が営々として訳してきた作家たちも、フィツジェラルド、チャンドラー、カポーティ、サリンジャー、ティム・オブライエン、ジョン・アーヴィングなど、非ノーベル賞の作家ばかりである。(レイモンド・カーヴァーはもしかして長命だったら、短編作家としてノーベル賞ということもないではなかったかもしれないけれど。)

 それより僕が気になるのは、日本の報道に見る村上春樹文学のとらえ方である。中には、「ポップ」で「軽い文体」で「都市風俗の中の孤独」を描いて世界的人気を得たとして、その代表として「風の歌を聴け」を挙げたりする。しかし、選考委員は日本語を読めない。基本的には英語、または仏語に訳されていない限り、検討の対象にはならないはずである。村上春樹は初期の2作の外国語への翻訳を許可していないから、「村上春樹ノーベル賞問題」を話題にするときには、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」は外さないとおかしい。村上春樹を論じるならば、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」を中心に考える必要がある。そして、オウム真理教のテロ事件をめぐるノンフィクション「アンダーグラウンド」「約束された場所で」を経たうえで「1Q84」が書かれる。現代社会を生きる人間の底の底に降りていく深い精神の穴(村上春樹の本では、よく「井戸」とされるが)と、そこからの脱出を描くのが村上春樹文学である。

 そのように考えると、宗教的背景のあるテロ事件が起き、「イスラム国」に欧米からも参加する若者がいるというような現代世界では、正気を保つためにハルキが必要だという人が多くいるのではないか。村上春樹にノーベル賞を取って欲しいと思う人は、まだまだ個人的な追憶の趣が強い「ノルウェイの森」などではなく、「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」、「1Q84」などの大小説を戦争と宗教テロを経験した日本という場で書く意味をこそ語っていくべきだと思う。
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