尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

佐分利信監督の「広場の孤独」

2014年10月23日 23時12分44秒 |  〃  (旧作日本映画)
 佐分利信監督の映画「広場の孤独」について書いておきたい。シネマヴェーラ渋谷で行われている「日本のオジサマⅡ 佐分利信の世界」という特集上映で、佐分利信が監督した作品が数本上映されている。「広場の孤独」はもう終わっているが、なかなか見る機会が少ないので見ておきたかった。

 この映画は傑作とか秀作と評価できる作品ではない。映画としては明らかに失敗作だと思うが、「問題作」というジャンルがあれば、そこに入れるべき映画だ。しかも、上映素材が非常に悪い。デジタル上映だが、事前に上映開始15分程度は画面と音声が合わないので了解の上で見て欲しいという。実際は覚悟した以上に状態が悪く、ほぼ全編にわたってノイズがひどい。昔のフィルム上映だとそういう場合もあるが、デジタルでこれほど悪いのは非常に残念である。しかし、逆に考えれば、「上映素材が残っていただけで貴重」とも言える。佐分利信監督には、今は失われて見ることができないと言われている作品がある。本当はフィルムセンターでデジタル修復して、大々的な佐分利信特集を行って欲しい。

 佐分利信(さぶり・しん 1909~1982)は戦前の松竹で活躍したが、僕には晩年の貫録ある大物役が懐かしい。山本薩夫監督の「華麗なる一族」の銀行頭取や小林正樹監督の「化石」の会社社長だけでなく、東映に招かれて中島貞夫監督の「やくざ戦争 日本の首領」にまで出演して驚かれた。もっとも中島監督は、これを日本の「ゴッドファーザー」として撮ったというから、つまりは日本のマーロン・ブランドだ。特集名は「オジサマⅡ」だが、これは先に「日本のオジサマ 山村聰」という特集があったからである。山村聰は日本で一番総理大臣役を演じた俳優だというが、晩年には政界、財界有力者を何度も演じた。二人とも戦後20年ほどぐらいの時期には、文芸メロドラマに多く出演して何人もの美人女優と「不倫」に陥っている。佐分利信の上映作品では、例えば「誘惑」では原節子、「わが愛」では有馬稲子…。

 ところで、この二人、佐分利信と山村聰は、いずれも1950年代には映画監督に進出し、共に社会派映画作家として大きく評価された共通点がある。そして、二人とも映画監督としてはほとんど忘れられ、オジサマ俳優として記憶されたわけである。二人とも小津安二郎映画で有名だが、佐分利信は戦前の「戸田家の兄妹」、戦後の「お茶漬けの味」「彼岸花」「秋日和」などで特に強い印象を残す。特に最後の2本などは、古い世代の父親が若い世代の結婚問題であたふたする様を演じていて、ほとんどセクハラまがいの言動をしている。そんな佐分利信がどのような映画を監督していたのか。当初は社会派路線だったのである。それは「蟹工船」「黒い潮」を撮った山村聰も同様である。

 佐分利信は、1950年に「女性対男性」で監督に進出、同年の「執行猶予」はベストテンで4位に選出された。(5位が黒澤の「羅生門」だから、それより上位だった。)翌1951年には「あゝ青春」(8位)、「風雪二十年」(6位)と2本がベストテン入選。1952年の「慟哭」(10位)と相次いで高い評価を受けたのである。高い知名度のあった俳優が監督に進出して、これほど高く評価されたのは、何十年か後の伊丹十三と北野武しかいないだろう。

 次に「人生劇場」2部作を撮り、次が「広場の孤独」。1954年に直木賞作品で二・二六事件を扱う「叛乱」を撮影中に病気で倒れ、阿部豊が引き継いで製作された。この後も50年代の間は毎年1本ほど監督しているが、それほど評価は高くない。(自分の出演したメロドラマが多い。)こうして完全に1950年代の映画監督だったわけだが、代表作と言われる「執行猶予」と「風雪二十年」が上映素材がない。松竹を支えた俳優だったけど、監督作品は独立プロや新東宝、東映などの製作が多いのがその理由だろう。残念なことである。

 「広場の孤独」だが、今では題名を見ただけで判る人がどれだけいるだろうか。これは堀田義衛(ほった・よしえ 1918~1998)の芥川賞受賞作品の映画化である。原作は1951年の話だが、それを製作された1953年に移し、新聞社に「スターリン危篤」の外電が入ってきたところから始まっている。主人公は有楽町にある新聞社、日産新報の外信部副部長の原口で、佐分利が演じている。しかし、原口は混乱する50年代日本を見つめる狂言回しであり、周辺には妻や部下の他、組合運動家や怪しげな外国人などがいろいろ登場する。原口は上海から引き揚げた過去があり、帰国後に子どもを失った。上海で非常に屈辱的な体験をしたらしいが、その時の関係者の外国人、オーストリアの元貴族であるらしいティルピッツなる人物も来日して暗躍し始める。原口はその動向を追うことにするが…。結ばれるべき人物が結ばれず、人心は乱れ、対立すべきではない人物が対立する…そういった50年代初頭、主権回復直後の日本の言論空間が描出されている。

 それが判りやすく面白いかと言えば、いまではほとんど理解不能な面も多い。「50年代」という時代、つまり日本の高度成長以前の社会は、今では非常に理解しにくくなっている。そのことを実感するような映画である。原作は2回読んでいるが細部は忘れた。原作発表時点ではまだ占領下であり、スターリンも存命だったわけだが、映画は製作時点の現実に合わせている。それが功を奏したのかどうか、判断は難しいが、全体としては後の熊井啓「日本列島」につながるような、日本はアメリカに占領されたままであるというような悲痛な思い、それがベースになり、そこに国際派知識人の国内に理解者を見つけにくい「孤独」が描かれているように思われる。

 堀田義衛は上海で敗戦を迎え、国民党に徴用された経験を経て、1947年に帰国した。その体験をもとに、日本と中国と知識人といったテーマでたくさんの小説を書いた。50年代は中国現代史関係の本が多い。70年代以後は、「ゴヤ」4部作や「方丈記私記」「定家明月記私抄」など日本やヨーロッパの古典を題材にした作品を書いた。晩年はスペインに住んでエッセイを書いた国際派知識人としての印象が強い。宮崎駿監督に大きな影響を与えたことでも知られている。

 「広場の孤独」も、今では題名だけでは感じ取れないかもしれないが、「広場」が「歴史への参加」、つまりはサルトルのいうアンガージュマン、「孤独」が「知識人の自意識」を指す。そういう「左翼同伴者」としての「知識人」を描いたことが非常に評価されたのである。それを映画化するというのは、非常な冒険だし、やはり人物がよく判らないままに右往左往する感じが強く、どう見ても成功作ではないと思う。でも、妻がだんだんと「転落」していき、秘密カジノに通うようになり、そこが警察に摘発されるといった、まさに暗い映画としての「フィルム・ノワール」調が時代を照らし出していると思う。

 「怪しげな外国人」のことを作中では「動乱利権屋」と表現している。情報を求めて右にも左にも食い込み、日本国内の対立を助長する。こういう人物が実際にいたかどうかは知らないが、「利権」と「情報」をめぐって怪しげな人物がうごめいていたことは間違いない。後のロッキード事件やグラマン事件などが発覚した時に、その一部の人物が浮上した。東西対立の最前線が朝鮮半島だから、日本はまさに「最大の補給基地」だった。日本共産党は分裂して武装闘争を掲げていた時代だから、左右対立をあおれば、右派勢力の再軍備主張も強まる。アメリカの軍事産業としては、日本情勢が安定しては困るという思惑だったと思う。実際にアメリカの大企業は、戦時中につながる右派勢力をエージェントとして使っていたわけである。

 ラストに外国人特派員が、もう朝鮮は終わり(スターリン死後に休戦になる)、今度はインドシナだと言ってベトナムへ向かう。その時に「その次が日本じゃないといいね」と言い残して。そういう危機感がリアルに伝わらなくなった時代には、映画の危機感が判りにくい。「動乱利権屋」と知らずに外国人の秘書となる津島恵子(原口の会社で印刷をしている組合役員の妹)が各人物をつなぎ合わせる役割をになっている。しかし、米軍関係で働く女性に、米側が「健診」を行おうとすることを「失礼しちゃう、パンパン扱いして。そういうのと闘って行かないと」などと言っているのは違和感を禁じ得ない。

 それは「性病検査」をするということではないだろう。雇用者側が労働者の健康状態を把握するのは、当然のことで義務でもある。でも、医療や福祉の体制が整わない社会では、病気が発見されれば解雇されて生活が成り立たない。「善意」で健康を検査することが「悪魔的所業」であり、かえって病気をうつして回っているなどと「誤解」されることが多い。当時の日本も、そういった「後進国」段階にあり、「革命か、内戦か」といった表現がある程度リアルな実感があった時代だ。そういう社会では「怪しい外国人」がいて、「知識人」は苦悩しつつ「現実と格闘するしかない」という認識の時代…それが「広場の孤独」の時代のリアルなのである。今から見るとずれた面があるとしても、この映画は貴重であり、修復される必要がある。
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