尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「9条にノーベル賞」問題②-ノーベル賞⑤

2014年10月18日 23時45分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 前回に続き、「憲法9条」にノーベル賞をと言う問題。今回は「憲法9条の歴史的意味」を考えてみたい。もし、憲法9条がなかったとしたら、戦後の歴史はどうなっていただろうか。日本はアメリカの参加する戦争にもっともっと深く関わっていたことは間違いないだろう。イラク戦争など中東の戦争の場合は、砂漠気候に慣れず、英語理解力が低い「日本軍」が戦闘に直接参加することはなかったかもしれない。しかし、ベトナム戦争の場合は、韓国やタイの軍隊もベトナムに派兵したわけだから、当然「日本軍」もアメリカの派兵要請を拒むことはできなかっただろう。戦闘に参加して、多くの戦死者を出していた可能性が高いのではないか。そう言う意味では、「憲法9条があって良かった」と僕は考えている人間である。なんだかんだ言っても、安倍首相であってさえ、集団的自衛権を「限定的に容認する」と言い、無限定にすべて認めるとは言えないのである。

 それではアメリカを中心とする占領軍は、どうして憲法9条を憲法草案に入れたのだろうか。初めから違った条文にしておけば、もっと日本に積極的な軍事的貢献を求められただろうに。しかし、それは「後知恵」というものである。9条制定の頃の問題意識は全然違ったところにあったからである。日本国憲法、特に9条には昔から「アメリカの押し付け」だという根強い批判があった。そういう人たちは、アメリカは「日本の国力を低くする」目的で9条を押し付けたと昔は言っていたものである。しかし、アメリカと言っても、本当の最高権力者であるトルーマン大統領には関わらないところで憲法草案が作られた。だから、「アメリカの陰謀」とするのは無理だろう。

 そもそもGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が憲法を作ってそのまま公布したというならともかく、当時は占領軍が憲法の案を作成したことは公表されておらず、あくまでも政府が作った案が帝国議会に提出された。憲法9条に「芦田修正」(「前項の目的を達するため」を9条2項の冒頭に加える)を施すことができたのだから、議会でもきちんと審議できた。(他の条文にも重要な修正があった。)その結果、議会を通過した案を、大日本帝国憲法の改正ということで、天皇の名で公布した。「議会で審議し、修正できた」ものを「押し付け」と言うのは言い過ぎだろう。慰安婦問題で、あれだけ「強制はなかった」などと言ってる人間が、ちゃんと議会審議できたものを「押し付け」呼ばわりはできないはずである。

 ところで、今は細かい説明は書かないが、古関彰一「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫)などの研究によれば、「憲法9条」は「天皇制存置」と深い関係があった。そもそも連合国はナチス・ドイツ解体を優先していたため、大日本帝国降伏後の日本(および日本の植民地)のあり方をきちんと決める前に日本が先に降伏してしまった。日本軍は「皇軍」と呼ばれ、天皇が大元帥として君臨していたわけだから、日本との戦争で大きな犠牲を払った連合国の諸国民は、天皇制に対して厳しい世論が存在した。戦争では圧倒的に米軍の力が大きく、占領軍の最高司令官も米陸軍のマッカーサー元帥が務めていたわけだが、タテマエ上は「連合国」である。本来はアメリカ以外の国々も占領政策に関与できるはずである。そこで「対日理事会」が作られることになったが、それはようやく1945年12月27日に決定され、翌1946年4月5日に初めての会合が持たれた。なお、参加国は米英ソ中の他、オーストラリア、ニュージーランド、インドである。

 憲法の案を占領軍が日本政府に提示したのは間違いないが、その日付の1946年2月12日という時期は、今見た「対日理事会」が開かれる直前に当たる。マッカーサーは天皇制を残して占領政策の協力者にすることを考えていたわけだが、ソ連やオーストラリアなどが加わる対日理事会がマッカーサーの頭上に出来てしまえば、「天皇制の廃止」が議論されかねない。そこで対日理事会発足直前に、「日本政府が自発的に作成した」として「戦争放棄」と「象徴天皇制」を決めたことにしたわけである。「押し付け」というなら、憲法9条の方ではなく「象徴天皇制」の方だったのである。

 憲法9条は「非武装国家」を志向していると読めると言えば、確かにそうも言える。政府自体も最初の頃は、個別的自衛権さえ放棄したと解釈していた時期もある。しかし、1950年に朝鮮戦争が始まると、GHQは日本に「警察予備隊」の創設を指令した。これが後に、保安隊、自衛隊となっていく「再軍備」の始まりである。そして、憲法9条があるがために、日本は「侵略の危機」に自力で対処することが難しいとされ、講和条約締結とともにアメリカとの間に「日米安全保障条約」が結ばれた。(安保条約の制定に関しては、昭和天皇が吉田首相の頭越しに米軍の存在を求めたという研究がある。)「9条があるのに、安保条約で米軍が居座るのはおかしい」とも言えるが、歴代政府の公式見解は「憲法9条があるから、日米安保が必要となる」というものである。しかも、9条と日米安保が出来た時代は、沖縄県は米軍の軍事統治下におかれ、大量の米軍基地が作られていた。昭和天皇はそれに対し、「沖縄の長期占領継続を求める」という「沖縄メッセージ」を米国側に伝達している。

 こうして考えてくると、「憲法9条」=「象徴天皇制」=「日米安保条約」=「沖縄の軍事基地化」は「4点セット」で戦後の日本を規定してきたというべきではないか。日本の置かれた歴史的位置からして、戦後の日本が「中立化」したり、ましてや「社会主義革命が起きる」可能性はほとんどなかったと思う。それが良かったかどうかの評価の問題とは別に。そして、「象徴天皇制」はほとんど定着している。(ある意味では、日本の歴史の大部分の時代が同じような体制だったからだろう。確かに「押し付け」ではあろうが、戦前と同じ絶対天皇制、国民主権下の象徴天皇制、天皇制廃止の三択で国民投票が行われていたとしても、象徴天皇制が圧倒的に支持されただろう。)「日米安保条約」も、今や東アジアの既存の枠組みとなっているのは事実であり、中長期的に考えるのは別として、短期的には数年内に安保条約をなくすという見通しは誰も持てないだろう。

 しかしながら、「沖縄の軍事基地化」は可能な限り早く、基地負担の軽減がなされなければならない。憲法9条をもっと理想的に解釈しようと、自衛隊や在日米軍や日本政府による自衛隊の海外派遣などは「違憲」であるとして、いくつもの裁判闘争が行われてきた。一部は原告側勝訴の判決もあったけれど、結局のところ、最高裁では認められていない。憲法9条を血肉化する試み、単に9条だけでなく平和的生存権、幸福追求権などとの関わりで、非軍事の領域を広げようとする試みがなされてきた。そのような広い意味での「護憲運動」を僕は貴重だと評価するが、結果として沖縄返還以後も沖縄の基地を劇的に削減することは出来なかった。そのことを考えれば、われわれは「憲法9条にノーベル賞を」ではなく、「沖縄県民の反軍事基地運動にノーベル賞を」と言うべきではないだろうか。もちろん、前回書いたように「沖縄県民」とか「運動」では授賞対象にはならないので、「誰か」を選んで推薦するべきだと思うが。(この問題はもっと書くべきことがあるので、あと一回続く。)
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