「9条を保持する日本国民」にノーベル平和賞をという問題の3回目。平和賞や9条に関する僕の考えは大体書いたので、最後に「この運動が見過ごしていると思う論点」を指摘して終わりにしたい。そもそも「日本国憲法(の一部の条文)に平和賞を」という発想そのものが、何か大きな勘違いをしているのではないだろうかと僕には思えるのである。それは、「日本国憲法に見られる国民主義的性格」に対する無批判である。
憲法というものは、市民革命以後の「国民国家」のあり方を規定するものだから、国家の政体(三権分立の仕組みなど)を決めている条項では、確かに「国民条項」を設けているのが普通である。例えば、アメリカ合衆国憲法は、大統領に就任できる人間を以下のように決めている。(出生により合衆国市民である者、または、この憲法の成立時に合衆国市民である者でなけれ ば、大統領の職に就くことはできない。年齢満35 歳に達していない者、および合衆国内に住所を得て14 年を経過していない者は、大統領の職に就くことはできない。)従って、カリフォルニア州知事にはなれたアーノルド・シュワルツネッガー(オーストリア出生)は、合衆国大統領にはなれないのである。
しかし、基本的人権の保障に関しては、もともと「天賦人権論」に基づく考え方がベースにあるから、単に「国民」だけではなく、「すべての人」に認めるという規定があるのが現在では普通である。ちょっと比べてみると、すぐにわかる。
日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
世界人権宣言第2条(1948年12月10日、国連総会で採択)
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
国際人権規約第2条(1966年、国連総会で採択)
この規約の各締約国は、その領域内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。
日本国憲法は世界で最高の憲法だなどという人が昔は結構いたものである。今も相変わらずそんなことを言ってる人がいるかもしれないが、世界の人権に対する考え方は日本国憲法制定後にどんどん進歩している。日本の憲法には不足していることがいっぱいあると思うのだが、特に大きな問題は「外国人の権利」が規定されていないということである。これは「無意識的に落としてしまった」ものではなく、憲法草案を日本側で「国民」に直していたり、旧植民地出身者の日本国籍を無条件で奪うなどの経過をみれば、かなり「意識的に外国人を排除した」可能性が高いのではないかと思う。(ちなみに、植民地を保有していた国は、植民地の独立に当たっては、本国の市民権を保有するかどうかの権利を与えるのが一般的である。一律に国籍を奪った日本の例は、ちょっと考えられないほどの非人道的な措置ではないかと思う。)
そういう憲法だから、2014年7月29日には最高裁によって、「定住外国人が生活保護を受給する権利は憲法では保障されていない」という驚くべき判決が出されている。(憲法は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めているから、日本も国際人権規約を締結している以上、この最高裁の判断は間違っているのではなだろうか。)昨今の日本での大きな問題に、「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)という問題がある。定住外国人に対する排外的主張が非常に多くなっているのは間違いない。そんな時代に、なぜ「日本国民にノーベル賞」という運動が起きるのだろうか。僕には不思議でならないのだが、これは戦後日本の「護憲リベラル」が「国民主義」(ナショナリズム)をきちんと向き合っていないということではないだろうか。
国連自由権規約委員会では、加盟国の人権状況を定期的に審査し報告を発表している。8月に発表された最終見解は、慰安婦問題やヘイトスピーチ規制に関して報道されたが、もっともっとたくさんの問題を指摘している。前回(2008年)に比べ、非嫡出子の相続に関する差別規定がなくなったなどの「肯定的側面」も挙げている。その中には「同性カップルがもはや公営住宅制度から排除されないという旨の,2012年の公営住宅法の改正」というほとんど報道されていないと思う問題もある。
しかし、全体としては日本社会には様々な問題が山積しているということをこの見解から見て取ることができる。男女平等、性的マイノリティ、非自発的入院(精神病者に対する問題)、死刑、人身取引、技能実習制度、福島原子力災害、難民保護、体罰、先住民の権利など実に様々な問題が取り上げられている。是非、先のサイト(外務省のサイトである)を見て欲しい。特に、毎回毎回指摘されているのは、「代用監獄」の問題である。代用監獄というのは、警察の留置場のことだが、捜査当局が取調べ対象者を自ら留置するなどという国は「先進国」にはないものである。「憲法9条を保持する日本国民」は、同時に「代用監獄を保持する日本国民」なのである。そうしたら、ノーベル平和賞には全くふさわしくない。イグノーベル賞に平和部門でもあれば対象になるかもしれないが。
僕が思うに、「護憲リベラル」という立場の人には、「死刑制度」の問題をきちんと考えて欲しいと思う。「悪い犯罪者は日本国家が殺すことをができる」という権限を日本国家がもつのであれば、「日本を侵略する悪い外国勢力を殺すことができる」という「戦争」を肯定する権限につながるのではないか。ドイツもイタリアも、つまり先の大戦で日本の同盟国だった国々では、戦後直後に死刑を廃止する決定を行っている。これは「戦争への反省」が死刑廃止に結びついたと理解できるのである。日本の「憲法9条護憲派」も、きちんと死刑廃止に取り組むべきではないかと思うのだが。ノーベル平和賞はその後でいいと思う。
憲法というものは、市民革命以後の「国民国家」のあり方を規定するものだから、国家の政体(三権分立の仕組みなど)を決めている条項では、確かに「国民条項」を設けているのが普通である。例えば、アメリカ合衆国憲法は、大統領に就任できる人間を以下のように決めている。(出生により合衆国市民である者、または、この憲法の成立時に合衆国市民である者でなけれ ば、大統領の職に就くことはできない。年齢満35 歳に達していない者、および合衆国内に住所を得て14 年を経過していない者は、大統領の職に就くことはできない。)従って、カリフォルニア州知事にはなれたアーノルド・シュワルツネッガー(オーストリア出生)は、合衆国大統領にはなれないのである。
しかし、基本的人権の保障に関しては、もともと「天賦人権論」に基づく考え方がベースにあるから、単に「国民」だけではなく、「すべての人」に認めるという規定があるのが現在では普通である。ちょっと比べてみると、すぐにわかる。
日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
世界人権宣言第2条(1948年12月10日、国連総会で採択)
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
国際人権規約第2条(1966年、国連総会で採択)
この規約の各締約国は、その領域内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。
日本国憲法は世界で最高の憲法だなどという人が昔は結構いたものである。今も相変わらずそんなことを言ってる人がいるかもしれないが、世界の人権に対する考え方は日本国憲法制定後にどんどん進歩している。日本の憲法には不足していることがいっぱいあると思うのだが、特に大きな問題は「外国人の権利」が規定されていないということである。これは「無意識的に落としてしまった」ものではなく、憲法草案を日本側で「国民」に直していたり、旧植民地出身者の日本国籍を無条件で奪うなどの経過をみれば、かなり「意識的に外国人を排除した」可能性が高いのではないかと思う。(ちなみに、植民地を保有していた国は、植民地の独立に当たっては、本国の市民権を保有するかどうかの権利を与えるのが一般的である。一律に国籍を奪った日本の例は、ちょっと考えられないほどの非人道的な措置ではないかと思う。)
そういう憲法だから、2014年7月29日には最高裁によって、「定住外国人が生活保護を受給する権利は憲法では保障されていない」という驚くべき判決が出されている。(憲法は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めているから、日本も国際人権規約を締結している以上、この最高裁の判断は間違っているのではなだろうか。)昨今の日本での大きな問題に、「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)という問題がある。定住外国人に対する排外的主張が非常に多くなっているのは間違いない。そんな時代に、なぜ「日本国民にノーベル賞」という運動が起きるのだろうか。僕には不思議でならないのだが、これは戦後日本の「護憲リベラル」が「国民主義」(ナショナリズム)をきちんと向き合っていないということではないだろうか。
国連自由権規約委員会では、加盟国の人権状況を定期的に審査し報告を発表している。8月に発表された最終見解は、慰安婦問題やヘイトスピーチ規制に関して報道されたが、もっともっとたくさんの問題を指摘している。前回(2008年)に比べ、非嫡出子の相続に関する差別規定がなくなったなどの「肯定的側面」も挙げている。その中には「同性カップルがもはや公営住宅制度から排除されないという旨の,2012年の公営住宅法の改正」というほとんど報道されていないと思う問題もある。
しかし、全体としては日本社会には様々な問題が山積しているということをこの見解から見て取ることができる。男女平等、性的マイノリティ、非自発的入院(精神病者に対する問題)、死刑、人身取引、技能実習制度、福島原子力災害、難民保護、体罰、先住民の権利など実に様々な問題が取り上げられている。是非、先のサイト(外務省のサイトである)を見て欲しい。特に、毎回毎回指摘されているのは、「代用監獄」の問題である。代用監獄というのは、警察の留置場のことだが、捜査当局が取調べ対象者を自ら留置するなどという国は「先進国」にはないものである。「憲法9条を保持する日本国民」は、同時に「代用監獄を保持する日本国民」なのである。そうしたら、ノーベル平和賞には全くふさわしくない。イグノーベル賞に平和部門でもあれば対象になるかもしれないが。
僕が思うに、「護憲リベラル」という立場の人には、「死刑制度」の問題をきちんと考えて欲しいと思う。「悪い犯罪者は日本国家が殺すことをができる」という権限を日本国家がもつのであれば、「日本を侵略する悪い外国勢力を殺すことができる」という「戦争」を肯定する権限につながるのではないか。ドイツもイタリアも、つまり先の大戦で日本の同盟国だった国々では、戦後直後に死刑を廃止する決定を行っている。これは「戦争への反省」が死刑廃止に結びついたと理解できるのである。日本の「憲法9条護憲派」も、きちんと死刑廃止に取り組むべきではないかと思うのだが。ノーベル平和賞はその後でいいと思う。