尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「大人は判ってくれない」の頃-トリュフォー全映画①

2014年10月29日 23時05分15秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランソワ・トリュフォー監督(1932~1984)映画蔡のまとめ。今まで書いた鈴木清順、蔵原惟繕、タルコフスキー、相米慎二など同じく、トリュフォーを見るのは素晴らしい体験だった。何度でも見られる映画である。やはりトリュフォーは「物語作家」で、物語の「語りのうまさ」が映画の出来を左右していると思った。各作品は参考のため、☆★で採点してみる。☆=20点、★=10点

あこがれ(1957) ☆☆☆☆
 非常に素晴らしい短編映画。自然描写の素晴らしさはルノワール「ピクニック」、悪童ものではジャン・ヴィゴ「操行ゼロ」があるけれど、同じように素晴らしい短編映画である。日本では「真夏の夜のジャズ」の併映で公開された。冒頭にベルナデット・ラフォンが自転車に乗って現れるところから、画面に眼を奪われてしまう。田舎道を自転車で駆け抜ける爽快感は、画面から風が吹いてくるかのよう。そのシーンは「突然炎のごとく」「恋のエチュード」で再現される。風でベルナデットのスカートがまくれ上がるシーンを見ると、「七年目の浮気」のマリリン・モンローの魅力も褪せてくる。

 トリュフォーの思い出ではなく、ちゃんと原作があるようだ。「悪童」たちが「年上の美女」にあこがれるあまり、かえって悪さをしてしまう。男なら誰でも思い出すような「男の子の胸キュン映画」。ロバート・マリガン「おもいでの夏」という忘れがたい映画があったけど、この映画はそういう感傷ではなく、もっと乾いた目で描いている。ベルナデットはよそ者の体育教師ジェラールと付き合って、婚約している。悪童たちはそれが気に食わなくて、いろいろいたずらするが、ジェラールはある日登山に出かけて死んでしまう。少年たちの心に忘れがたい傷が残る。ラストに黒服で歩くベルナデットを見かけるのだった。
 
 トリュフォーは、1954年に「ある訪問」という自主製作映画を作っているが、それは僕も見ていない。その後、ロッセリーニの助監督をしたりした後で、自分で会社を作って製作した。トリュフォーは映画会社や映画学校の出身ではない。映画ファンが映画批評を書くようになり、映画の実作に進んで行ったのである。批評家としては、当時のフランス映画を痛烈に批判して「フランス映画の墓堀人」とまで言われた。「あこがれ」の中でジャン・ドラノワ「首輪のない犬」のポスターを破るシーンがある。

大人は判ってくれない(1959) ☆☆☆☆
 長編第1作で、カンヌ映画祭で監督賞を受賞して、一躍有名になった。キネマ旬報ベストテン(60年)の第5位。(ちなみに1位は「チャップリンの独裁者」、2位は「甘い生活」、8位に「勝手にしやがれ」が入っている。)ゴダールの「勝手にしやがれ」という邦題も凄いが、この映画も、直訳すれば「400回の殴打」、慣用句で「無分別」という意味らしい。それを「大人は判ってくれない」としたセンスも大したものである。日本では、野口久光氏によるポスターが作られ、トリュフォーも大のお気に入りになった。後に「アントワーヌとコレット」の中で、アントワーヌ・ドワネルの部屋にこのポスターが貼ってある。

 映画は名カメラマン、アンリ・ドカエの撮影によるパリの美しい夜景から始まる。「死刑台のエレベーター」や「いとこ同士」を撮った人。「太陽がいっぱい」「シベールの日曜日」もドカエ。この「巴里風景」やポスター、題名により日本では少し内容が誤解されて受容されたのではないか。何というか、「パリの空の下セーヌは流れる」+「にんじん」といった、「おフランスの可哀そうな少年」もののように。

 今回で4回目ではないかと思うが、僕も若い時に初めて見た時は、「親に捨てられた子どもの青春の反抗」ととらえていた。当時は世界的に「若い世代の反抗」が描かれた時代で、アメリカのジェームズ・ディーン、ポーランドのズビグニエフ・チブルスキー、日本の石原裕次郎、そしてゴダール「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドと続く「新世代」の若者がいた。でもアントワーヌ・ドワネル(ジャン・ピエール・レオが名演)は12歳で、やることなすこと幼い。幼すぎて「反抗」とまで言えない。

 トリュフォーの自伝的「ドワネル」もの5部作の最初の作品。アントワーヌは学校で厳しい先生に叱られる。授業中に写真が回ってきて、何人目かのドワネルがいたずら書きしていると先生に見つかり立たされる。教室の前の掛図の裏に入ったドワネルは、自分は無実の罪で迫害されたなどと詩を書きつけて、それもきつく叱られる。授業中に関係ないものを回したのはドワネルではないと観客は知っているので、「先生はひどい」と思うような演出である。しかし、そこから映画を始めるからそう見えるけれど、多分今までにも似たようなことがあり、教室で「問題児」扱いされていたのではなかろうか。だから「またか」という目で見られるのと思う。親からも同じで、バルザック崇拝の神棚を作ってロウソクに火をつけたままにして、燃え上がって火事に一歩手前になるシーンを見ても、家でも似たようなことが多かったことを推測させる。

 その後の「タイプライター」を窃盗するも売りさばけずに会社に戻して捕まるシーンなど、一体何をやっているんだろうか。どうしようもない感じである。結局、大人(社会)との付き合い方があまりよく判っていない少年なのである。「謝る」ということが出来ず、一回の失敗が次の失敗につながり、結局親からも見捨てられる。感化院にいるときに母親が会いに来て、「父親にあんなひどい手紙を送るなんて」と言う。そしてもう帰るなと言われてしまうが、その手紙が出てこないから、アントワーヌが可哀想に見える。でも「頼るべきところ」を自分から切ってしまったのである。才能はあると思われるのに、どうして「自分から不幸になっていくのだろうか」と思う。一種の「軽い発達障害」により「人の心が読めない」ということか。後々のアントワーヌの恋愛失敗談を見ると、そういう理解もありかもしれない。

 でも、それ以上に「虐待」という育ち方が大きな影響を与えたように思う。母親は未婚で妊娠した相手とは結婚できず、他の男が結婚してくれて子どもを産んだのである。祖母に預けられた時もあるが、祖母も老いて母に返された。その経緯を自分でも知ってしまったアントワーヌは、父にはなじめず、夫に配慮する母親にも辛く当たられる。だから「無条件で可愛がってくれる」とか「頑張るとほめてもらえる」といった体験を知らずに育ってきたのである。しかし、感受性豊かな少年で、やがて映画や音楽が彼を支えることになる。こういう見方が正しいかどうかはともかく、「児童心理の教科書」のような映画である。教育や福祉を志す若い人たちに見せて、皆で話し合いさせてみたい映画。若い人は是非見て欲しい

 ラストでは脱走して走りに走って海へ至るが、その時のジャン=ピエール・レオの顔は忘れられない。この時の懸命な走りも「長距離ランナーの孤独」ような走る映画を別にすれば、「フレンチ・コネクション」か「陸軍」(木下恵介)を思わせる一生懸命さだった。トリュフォーのように映画会社での下積み経験がない若者が本格的長編映画を作ることは、当時はほとんどなかった。松竹ヌーベルバーグは会社員だし、タルコフスキーやポランスキーは映画学校の卒業制作が認められた。この経歴が「映画万年筆論」(アストリュック)を実証するような「新しい波」(ヌーヴェルヴァーグ)に思えて、世界的に大反響を呼ぶわけである。しかし、アメリカのフィルム・ノワールに熱中したトリュフォーの映画文法そのものは案外伝統的なものだったのだと思う。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする