2021年の米アカデミー賞でエメラルド・フェネルが脚本賞を得た「プロミシング・ヤング・ウーマン」(Promising Young Woman)が公開された。他にも作品賞、監督賞(エメラルド・フェネル)、主演女優賞(キャリー・マリガン)、編集賞にもノミネートされた。時間を行き来するミステリー的な構成で、確かによく出来た脚本だ。でも映画の完成度としては「ノマドランド」に及ばないだろう。そしてそれで良いんだろうと思う。伝えるべきメッセージをエンターテインメントとして送り出すというのがこの映画の眼目だと思うから。

冒頭でキャシー(キャリー・マリガン)が夜のバーで酔っ払っている。ミニスカートがまくれているのを見ている3人の男がいる。「なかなかいい女だ」「ああいうスキを見せるとまずいぞ」「お前介抱してやれよ」的な言葉を交わしている。そういう「出会い」を見つける場なんだろうし、男は「お持ち帰り」出来る女を捜しているんだろう。チラシに「復讐エンターテインメント」とあるから、見る前からこれは「罠」なんだろうと思って見ることになる。キャシーは男の家まで付いていくが、案の定実は素面で男の態度を告発する。
(バーで酔った(ふりの)キャシー)
段々判ってくるが、キャシーは以前は医学部で勉強していたが、今は小さなカフェで働く日々。夜な夜な飲み屋に出掛け「私的おとり捜査」を繰り返している。両親は毎日遅いので心配してるが、「残業」だと言い張る。そんな時に昔医大で同級生だったライアン(ボー・バーナム)がカフェにやってくる。ライアンは懐かしく思い、昔のクラスメートの消息も伝える。自分は小児科医になっていて、アル・モンローは今度結婚するんだと。キャシーはアルの名前に激しく反応した様子で、昔のニーナのことは覚えているかと言う。
「プロミシング・ヤング・ウーマン」とは「前途を約束された若い女性」ということだが、キャシーもニーナも昔はそう言われていた。しかし、医大生の時に何かが起こった。それは一体何なのか。キャシーの幼い頃からの親友だったニーナはある日パーティで酔っ払って意識がない状態の時に、アルにレイプされた(ということらしい)。ニーナは学校当局に訴えるが、信じて貰えなかった。「前途有望な若者」を証拠不十分で罰するわけにはいかないと言われた。弁護士にも告発を取り下げさせられた。キャシーはクラスメートのマディソンをレストランに招き、なんで傍観していたのかと問う。そして酔わせたうえで男に引き渡す。
(キャシーとライアン)
昔の弁護士、大学で事件をもみ消した責任者(女性)、ニーナの母親…キャシーは様々な人に会いに行く。ニーナの母はもう前を向いて欲しいと言う。ライアンはまたカフェに来て、次第にキャシーも打ち解けてくる。食事にも行ったし、キャシーの両親にも挨拶に来た。キャシーはライアンと付き合って、再び前を向いて歩き出せるのか。そんな時にマディソンがこの前は何が起こったのかと問い詰めに来て、ある「動画」があったんだと渡す。キャシーは今30歳前後だから、学生時代はもうスマホがあったのである。その動画を見て、ついにキャシーは最終の行動に出る。そしてライアンに別れを告げ、アルの「独身最後のパーティ」の場所を聞き出す。
(看護師の衣装でアルのパーティへ)
キャシーは看護師の扮装をして「誰かが頼んだストリッパー」を装って、アルのパーティに潜り込む。そして、どうなるか。それはキャシーの人生を賭けた行動だったのである。これは性犯罪の告発に止まらない。「復讐」を主眼にしているが、それとともに中立を言いわけにして「傍観者」を決め込むものへの告発でもある。かつての事件をもみ消した責任者が女性だったように、単に性別でくくれない問題だ。それでも自分の身近なものが対象になれば、当事者の気持ちが判る。では、キャシーのやり方は有効なのか。
被害者の心は壊れてしまうが、加害者は平気で生きていける。そのような「構造」をスリリングなエンターテインメントとしてあぶり出している。少し前に読んだ姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」を思い出すが、あの小説(とモデルになった現実の事件)では刑事事件としてのプロセスが一応機能していた。一方、この映画ではそもそも刑事事件になっていない。そのことに驚いた。「独身最後」の男だけのパーティという「ホモソーシャル」な世界の気持ち悪さ。それも医学部生という「リッチ」な男たちの貧困な発想にも驚く。
キャリー・マリガンは「17歳の肖像」「わたしを離さないで」などで活躍しているイギリスの女優。ライアン役のボー・バーナムは「エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ」という映画の監督でもある。監督、脚本、製作を務めたエメラルド・フェネルは今作が監督デビューだが、今まで女優、小説家として広く活躍してきたという。今作のキャシーの描き方は非常に才能豊かで、今後注目の女性表現者だと思う。今作は告発色が強く、「復讐」がテーマになっているから、これで本当に良いのだろうかと見る者に尽きつける力がある。
僕には評価仕切れない気持ちが残るが、それは名前しか出て来ないニーナという存在が大きい。ニーナは名前でしか出て来ないから、キャシーがどんなに辛いかも観客の想像で補う必要がある。キャシーの「復讐」も、村上春樹「1Q84」の青豆のようなものではないから、こういう毎日でいいのかと見る者に思わせる。そういう設定の細部など、脚本は僕には今ひとつのような気もした。近年の脚本賞がテーマ性重視になっている感じもする。「少年の君」はイジメ、今作は性犯罪と、傍観者を鋭く問う映画を見るのも辛いが必見の作品だろう。

冒頭でキャシー(キャリー・マリガン)が夜のバーで酔っ払っている。ミニスカートがまくれているのを見ている3人の男がいる。「なかなかいい女だ」「ああいうスキを見せるとまずいぞ」「お前介抱してやれよ」的な言葉を交わしている。そういう「出会い」を見つける場なんだろうし、男は「お持ち帰り」出来る女を捜しているんだろう。チラシに「復讐エンターテインメント」とあるから、見る前からこれは「罠」なんだろうと思って見ることになる。キャシーは男の家まで付いていくが、案の定実は素面で男の態度を告発する。

段々判ってくるが、キャシーは以前は医学部で勉強していたが、今は小さなカフェで働く日々。夜な夜な飲み屋に出掛け「私的おとり捜査」を繰り返している。両親は毎日遅いので心配してるが、「残業」だと言い張る。そんな時に昔医大で同級生だったライアン(ボー・バーナム)がカフェにやってくる。ライアンは懐かしく思い、昔のクラスメートの消息も伝える。自分は小児科医になっていて、アル・モンローは今度結婚するんだと。キャシーはアルの名前に激しく反応した様子で、昔のニーナのことは覚えているかと言う。
「プロミシング・ヤング・ウーマン」とは「前途を約束された若い女性」ということだが、キャシーもニーナも昔はそう言われていた。しかし、医大生の時に何かが起こった。それは一体何なのか。キャシーの幼い頃からの親友だったニーナはある日パーティで酔っ払って意識がない状態の時に、アルにレイプされた(ということらしい)。ニーナは学校当局に訴えるが、信じて貰えなかった。「前途有望な若者」を証拠不十分で罰するわけにはいかないと言われた。弁護士にも告発を取り下げさせられた。キャシーはクラスメートのマディソンをレストランに招き、なんで傍観していたのかと問う。そして酔わせたうえで男に引き渡す。

昔の弁護士、大学で事件をもみ消した責任者(女性)、ニーナの母親…キャシーは様々な人に会いに行く。ニーナの母はもう前を向いて欲しいと言う。ライアンはまたカフェに来て、次第にキャシーも打ち解けてくる。食事にも行ったし、キャシーの両親にも挨拶に来た。キャシーはライアンと付き合って、再び前を向いて歩き出せるのか。そんな時にマディソンがこの前は何が起こったのかと問い詰めに来て、ある「動画」があったんだと渡す。キャシーは今30歳前後だから、学生時代はもうスマホがあったのである。その動画を見て、ついにキャシーは最終の行動に出る。そしてライアンに別れを告げ、アルの「独身最後のパーティ」の場所を聞き出す。

キャシーは看護師の扮装をして「誰かが頼んだストリッパー」を装って、アルのパーティに潜り込む。そして、どうなるか。それはキャシーの人生を賭けた行動だったのである。これは性犯罪の告発に止まらない。「復讐」を主眼にしているが、それとともに中立を言いわけにして「傍観者」を決め込むものへの告発でもある。かつての事件をもみ消した責任者が女性だったように、単に性別でくくれない問題だ。それでも自分の身近なものが対象になれば、当事者の気持ちが判る。では、キャシーのやり方は有効なのか。
被害者の心は壊れてしまうが、加害者は平気で生きていける。そのような「構造」をスリリングなエンターテインメントとしてあぶり出している。少し前に読んだ姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」を思い出すが、あの小説(とモデルになった現実の事件)では刑事事件としてのプロセスが一応機能していた。一方、この映画ではそもそも刑事事件になっていない。そのことに驚いた。「独身最後」の男だけのパーティという「ホモソーシャル」な世界の気持ち悪さ。それも医学部生という「リッチ」な男たちの貧困な発想にも驚く。
キャリー・マリガンは「17歳の肖像」「わたしを離さないで」などで活躍しているイギリスの女優。ライアン役のボー・バーナムは「エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ」という映画の監督でもある。監督、脚本、製作を務めたエメラルド・フェネルは今作が監督デビューだが、今まで女優、小説家として広く活躍してきたという。今作のキャシーの描き方は非常に才能豊かで、今後注目の女性表現者だと思う。今作は告発色が強く、「復讐」がテーマになっているから、これで本当に良いのだろうかと見る者に尽きつける力がある。
僕には評価仕切れない気持ちが残るが、それは名前しか出て来ないニーナという存在が大きい。ニーナは名前でしか出て来ないから、キャシーがどんなに辛いかも観客の想像で補う必要がある。キャシーの「復讐」も、村上春樹「1Q84」の青豆のようなものではないから、こういう毎日でいいのかと見る者に思わせる。そういう設定の細部など、脚本は僕には今ひとつのような気もした。近年の脚本賞がテーマ性重視になっている感じもする。「少年の君」はイジメ、今作は性犯罪と、傍観者を鋭く問う映画を見るのも辛いが必見の作品だろう。