尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アントニオ猪木と仲本工事ー2022年10月の訃報①

2022年11月07日 22時33分18秒 | 追悼
 2022年10月の訃報は2回に分けることにする。他に8月の訃報が10月に公表されたケースがあり、それを別に書きたい。10月は何と言っても、アントニオ猪木仲本工事の訃報ということになる。大きく報じられたというか、名前を多くの人が知っていたという意味だけど。9月30日に三遊亭円楽(6代目)が亡くなり、翌日にアントニオ猪木が亡くなった。実感的には二人続けて有名人が亡くなったと感じたわけだが、月ごとに分けて書く時には、ちょうど分かれてしまう。それも不思議な気がする。
(アントニオ猪木)
 アントニオ猪木の基本的なデータを書いておくと、1943年2月20日に横浜で生まれ、2022年10月1日に死去。79歳。本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。13歳の時に家族とともにブラジルに移住し、サンパウロ近郊で暮らした。1960年にプロレス興行でブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、同年9月30日にプロレスラーとしてデビューした。(その日はジャイアント馬場のデビュー日でもあった。)当初は本名で登場したが、1962年11月にリングネームをアントニオ猪木に改名した。何となく、ブラジルでアントニオを名乗っていた日系ブラジル人のようなイメージがあるが、それは間違い。
(葬儀)
 僕はプロレスのことは詳しくない。当時の子どもたち多くと同じく、力道山はよくテレビで見ていた。幼いながら力道山が殺されたニュースも覚えている。だからアントニオ猪木もジャイアント馬場ももちろん知っていた。しかし、テレビ中継が少なくなり、自分も成長して他のことに関心が出て来ると見なくなった。それはプロ野球や大相撲も同じで、ラジオの深夜放送を聞きながら受験勉強していたのである。そういう僕でも「アントニオ猪木対モハメド・アリ戦」は見た。1976年6月26日である。この「世紀の凡戦」には、途中で「何だこれ」と思った記憶がある。今ではよく知られているように「異種間格闘技」の始まりで、真剣勝負だったとされる。猪木とアリの関係はその後も続き、入場曲「イノキボンバイエ」はアリから贈られたものだった。
(猪木・アリ戦)
 1989年の参議院選挙に、突然「スポーツ平和党」を結成して立候補したのには驚いた。この時の参院選は消費税やリクルート事件をめぐって、社会党が躍進した選挙だった。普段政治に関心がなさそうな体育教師が猪木に入れると燃えていた。しかし、与野党激突のさなかに新党を結成するやり方は、どうも与党を手助けする気がした。結局、1989年から95年まで務めて、次は落選。92年に当選していた江本孟も離党した。しかし、2013年になって、日本維新の会から立候補して2期目の参議院議員に当選した。この時の「維新」は「大阪維新の会」と「立ちあがれ日本」が合同した政党で、代表は石原慎太郎である。翌年に分裂した時は石原系の「次世代の党」に所属した。(以後、日本を元気にする会、無所属)。湾岸戦争前のイラク訪問や独自の「北朝鮮」外交を評価する声もあるが、僕にはどうもずいぶん右寄りの政治家だったという気がする。
(病床のアントニオ猪木)
 政治家としてはともかく、やはり「燃える闘魂」と呼ばれた猪木の技の数々、「卍固め」「コブラツイスト」「バック・ドロップ」などを聞くと、幼い頃のプロレスごっこを思い出して懐かしくなる。そういう人が多かったのだろう、朝日新聞の俳壇、歌壇に惜別の投稿が相次いだという記事は興味深かった。「闘魂の猪木が遺したこの言葉元気があれば何でもできる」(静岡・半田豊)、「カラーテレビがついにわが家に来た夜に出たぞ猪木のコブラツイスト」(愛媛・村上敏之)、「猪木馬場茶の間にプロレス流れてた昭和は二つ前の元号」(広島・森浩希)、「死ぬるまで燃ゆる闘魂星流る」(長野・懸展子)、「闘病の燃える闘魂一葉落つ」(福島・佐藤茂)…。やがて10月1日は「闘魂忌」という季語になるのだろう。

 ザ・ドリフターズで活躍した仲本工事が10月19日に死去、81歳。本名は仲本興喜。前日の18日午前に横浜市で交通事故にあって重体というニュースが流れていた。僕はザ・ドリフターズもあまりよく知らない。何と言っても「8時だヨ!全員集合」ということになるが、僕はこのテレビ番組を見ていないのである。テレビは一家に一台の時代で、親が見ない番組は子どもは見られない。だけど、メンバーの名前は知っていた。5人というか、6人の名前は言えるのである。
(仲本工事)
 今回調べて、都立青山高校から学習院大学へ進んだという経歴を知った。ずっと体操を続けていて、都大会でも2位になったとウィキペディアに出ていた。しかし、大学に体操部がなく、音楽に進んだという。だから、後々器械体操のギャグで知られるようになったわけである。ザ・ドリフターズと言えば、ザ・ビートルズの公演の前座を務めたグループである。後にはコメディアンというイメージが強くなったが、もともとは音楽グループだった。
(ザ・ドリフターズ)
 いかりや長介が2004年に亡くなり、そして2020年に志村けんが亡くなったわけである。仲本工事の最後の公式行事は「志村けんの大爆笑展」を訪れたことで、その時の写真をツイッターに投稿したという。最後は加藤茶と高木ブーの二人となった。
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