石川慶監督『ある男』が公開された。原作は平野啓一郎『ある男』で、ほぼ原作通りの物語になっている。小さな部分で変更もあるが、テーマ性は原作を踏まえている。2018年に刊行された原作は、2021年に読んで非常に大きな感銘を受けた。原作の考えさせられる部分を映画はよく映像化していて、傑作だと思う。今年の日本映画は収穫が乏しかったが、この映画はベスト級の力作だ。
原作に関しては、読んだときに「大傑作、平野啓一郎『ある男』を読む」を書いたので、詳しい物語はそちらを参照。僕も細部を忘れていたが、原作では主人公の弁護士が震災ボランティアの法律相談に一生懸命になって妻との関係が悪くなるという設定だった。映画ではその部分は全く出て来ない。この数年で震災のリアリティが失われたのかと感慨深い。石川慶監督(1977~)は前作『蜜蜂と遠雷』で長大な原作を上手に刈り込んで見事に映画化した。その実績からも期待大だったが、いつものように自ら編集も担当しキビキビした映画になっている。脚本は向井康介で、最近見た『マイ・ブロークン・マリコ』の人である。
(原作)
冒頭に絵が出て来る。ラストにも出るが、それはルネ・マグリット『複製禁止』という絵だという。下に示すが、二人の男の後ろ姿が描かれている。人間であることは判るけれど、個別認識が出来ない。「人間とは何か」、そう問われれば様々な答え方が出来る。生物学的に、哲学的に、また社会的存在として…等々。だけど普通一般的には、「顔」と「名前」を個別に記憶して、それぞれ自分の周囲の人間を認識しているものだ。政治家や芸能人、スポーツ選手、あるいは歴史的人物など、直接会ったことはなくても名前で覚えている。その「名前」というものは人間にとって何なんだろうか。
(「複製禁止」)
離婚して息子を連れて宮崎県の実家に帰った里枝(安藤サクラ)は、家業の文房具屋を手伝っている。絵の材料を買いに来る男と知り合い、次第に心を通わせてゆく。やがて里枝は谷口大祐(窪田正孝)と名乗る男と結婚し、娘も生まれる。しかし林業をしている大祐は木の下敷きになって亡くなり、一周忌に伊香保温泉の旅館主という兄がやって来る。写真を見てこれは弟ではないと言って、では誰だったのかと探索が始まる。このぐらいは書かないと、先に進めない。
(里枝と「大祐」)
全編からすればプロローグにあたるこの出だしが素晴らしい。ちょっと古びた文房具屋が懐かしい。昔は学校の近くに必ずあったものだ。一人で店番していると里枝は自然と涙ぐんでくる。安藤サクラの涙は『万引き家族』をしのぐらしい素晴らしい。そして鏡やガラス窓、水面などを通して捉えられた映像の素晴らしさ。それは映像的に見事なだけではなく、テーマとしっかり結びついている。「人間とは何か」は「反射」としてしか我々には判らないのである。全編通じて柔らかな光の中で撮られた映像は近藤龍人の撮影。『私の男』『万引き家族』などの撮影を担当した。
(幸せだった在りし日)
里枝は離婚訴訟で世話になった城戸弁護士(妻夫木聡)に依頼して、「谷口大祐」の真相を調べることにする。結局、原作も映画も城戸を「探偵役」にしたミステリー的な物語になる。探索を進めてゆくと「戸籍」、「死刑制度」、「ヘイトスピーチ」など様々なサブテーマが出て来る。それらは結局「スティグマ」を負わされた人間という問題に行き着く。城戸弁護士も「在日三世」としてヘイトスピーチに無関心ではいられない。そして「谷口大祐」ではない「男X」はあまりにも巨大なスティグマを背負って生きてきたことが浮かび上がってくる。その人間像を多くの人物を通して描き分けていく。
(城戸弁護士の事務所)
谷口の兄(眞島秀和)やボクシングジム会長(でんでん)など脇役が生きている。また、子役、特に大きくなった長男(坂元愛登)が良かった。彼は亡くなった「父」を慕っていたが、何度も苗字が変わることで自分は何者かに悩んでいる。また「主役」である城戸弁護士を演じる妻夫木聡の抑制された演技は、全編を引き締めている。それに比べると、いつもの名演(怪演)をしている詐欺師小見浦を演じる柄本明がやり過ぎに感じられるぐらいだ。ただ彼も城戸を「イケメン弁護士」と呼び、自らの顔を「不細工」だと言う。「名前」じゃなければ「顔」にこだわるのである。
ちょっと残念だったのは、主なロケ地が宮崎じゃなかったことだ。文房具屋や林業のシーンは山梨県笛吹市でロケされた。ラストのクレジットを見て主要なロケ地は山梨だったのかと思った。伊香保の旅館の次男が山梨にいたのでは近すぎる。だから映画でも宮崎になっているが、多くの人気俳優を長時間拘束するには九州は遠すぎたのか。宮崎と山梨では光も樹種も少し違うと思うけど、そこは上手に撮られている。すべてを映像で語る映画になって落ちた部分もあるから、映画を見た人は原作も読んで欲しいと思う。だが、原作をキビキビとしたセリフと編集で語り尽くした映画の魅力も捨てがたい。生きることの難しさ、日本社会の問題を突きながらも、終わった後の後味が良いのは子役が良かったからだと思う。
原作に関しては、読んだときに「大傑作、平野啓一郎『ある男』を読む」を書いたので、詳しい物語はそちらを参照。僕も細部を忘れていたが、原作では主人公の弁護士が震災ボランティアの法律相談に一生懸命になって妻との関係が悪くなるという設定だった。映画ではその部分は全く出て来ない。この数年で震災のリアリティが失われたのかと感慨深い。石川慶監督(1977~)は前作『蜜蜂と遠雷』で長大な原作を上手に刈り込んで見事に映画化した。その実績からも期待大だったが、いつものように自ら編集も担当しキビキビした映画になっている。脚本は向井康介で、最近見た『マイ・ブロークン・マリコ』の人である。
(原作)
冒頭に絵が出て来る。ラストにも出るが、それはルネ・マグリット『複製禁止』という絵だという。下に示すが、二人の男の後ろ姿が描かれている。人間であることは判るけれど、個別認識が出来ない。「人間とは何か」、そう問われれば様々な答え方が出来る。生物学的に、哲学的に、また社会的存在として…等々。だけど普通一般的には、「顔」と「名前」を個別に記憶して、それぞれ自分の周囲の人間を認識しているものだ。政治家や芸能人、スポーツ選手、あるいは歴史的人物など、直接会ったことはなくても名前で覚えている。その「名前」というものは人間にとって何なんだろうか。
(「複製禁止」)
離婚して息子を連れて宮崎県の実家に帰った里枝(安藤サクラ)は、家業の文房具屋を手伝っている。絵の材料を買いに来る男と知り合い、次第に心を通わせてゆく。やがて里枝は谷口大祐(窪田正孝)と名乗る男と結婚し、娘も生まれる。しかし林業をしている大祐は木の下敷きになって亡くなり、一周忌に伊香保温泉の旅館主という兄がやって来る。写真を見てこれは弟ではないと言って、では誰だったのかと探索が始まる。このぐらいは書かないと、先に進めない。
(里枝と「大祐」)
全編からすればプロローグにあたるこの出だしが素晴らしい。ちょっと古びた文房具屋が懐かしい。昔は学校の近くに必ずあったものだ。一人で店番していると里枝は自然と涙ぐんでくる。安藤サクラの涙は『万引き家族』をしのぐらしい素晴らしい。そして鏡やガラス窓、水面などを通して捉えられた映像の素晴らしさ。それは映像的に見事なだけではなく、テーマとしっかり結びついている。「人間とは何か」は「反射」としてしか我々には判らないのである。全編通じて柔らかな光の中で撮られた映像は近藤龍人の撮影。『私の男』『万引き家族』などの撮影を担当した。
(幸せだった在りし日)
里枝は離婚訴訟で世話になった城戸弁護士(妻夫木聡)に依頼して、「谷口大祐」の真相を調べることにする。結局、原作も映画も城戸を「探偵役」にしたミステリー的な物語になる。探索を進めてゆくと「戸籍」、「死刑制度」、「ヘイトスピーチ」など様々なサブテーマが出て来る。それらは結局「スティグマ」を負わされた人間という問題に行き着く。城戸弁護士も「在日三世」としてヘイトスピーチに無関心ではいられない。そして「谷口大祐」ではない「男X」はあまりにも巨大なスティグマを背負って生きてきたことが浮かび上がってくる。その人間像を多くの人物を通して描き分けていく。
(城戸弁護士の事務所)
谷口の兄(眞島秀和)やボクシングジム会長(でんでん)など脇役が生きている。また、子役、特に大きくなった長男(坂元愛登)が良かった。彼は亡くなった「父」を慕っていたが、何度も苗字が変わることで自分は何者かに悩んでいる。また「主役」である城戸弁護士を演じる妻夫木聡の抑制された演技は、全編を引き締めている。それに比べると、いつもの名演(怪演)をしている詐欺師小見浦を演じる柄本明がやり過ぎに感じられるぐらいだ。ただ彼も城戸を「イケメン弁護士」と呼び、自らの顔を「不細工」だと言う。「名前」じゃなければ「顔」にこだわるのである。
ちょっと残念だったのは、主なロケ地が宮崎じゃなかったことだ。文房具屋や林業のシーンは山梨県笛吹市でロケされた。ラストのクレジットを見て主要なロケ地は山梨だったのかと思った。伊香保の旅館の次男が山梨にいたのでは近すぎる。だから映画でも宮崎になっているが、多くの人気俳優を長時間拘束するには九州は遠すぎたのか。宮崎と山梨では光も樹種も少し違うと思うけど、そこは上手に撮られている。すべてを映像で語る映画になって落ちた部分もあるから、映画を見た人は原作も読んで欲しいと思う。だが、原作をキビキビとしたセリフと編集で語り尽くした映画の魅力も捨てがたい。生きることの難しさ、日本社会の問題を突きながらも、終わった後の後味が良いのは子役が良かったからだと思う。