2023年最初の『見田宗介著作集』は、第Ⅸ巻の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』を読み直した。今回は最初に刊行された原著を読み、「補章 風景が離陸するとき」だけ著作集で読んだ。この補章は非常に興味深い論考なので、もとの本を読んでいる人でも探して読む価値がある。原著は1984年2月29日という不思議な日付で「20世紀思想家文庫」の一冊として刊行された。1991年に「同時代ライブラリー」に、2001年に「岩波現代文庫」に収録され、これは今も入手可能になっている。
(「宮沢賢治」)
もっと後に出た本と思い込んでいたが、84年2月だったのかとまず思った。就職(83年4月)、結婚(83年10月)のちょっと後である。読んで非常に大きな感銘を受けた記憶はあるが、細部をすっかり忘れていたのも当然だ。この本は書かれてから40年近く経っているが、今も重要な意味を持っている。むしろ更に重大性を増しているかもしれない。
宮沢賢治(1896~1933)の名を知らない日本人はほぼいないだろう。しかし「中央では認められず不遇のうちに死んだローカルな童話作家」ぐらいに思い込んでいる人も多いんじゃないか。この本は「20世紀思想家文庫」の一冊である。もっともこのシリーズはトーマス・マン(辻邦生著)、エイゼンシュテイン(篠田正浩著)、デュシャン(宇佐美圭司著)など、普通は「思想家」とみなされない人も扱っている。だが日本人としては西田幾多郎(中村雄二郎著)に続いて宮沢賢治だけが選ばれている。
(宮沢賢治)
宮沢賢治は「思想家」だったのか。まさにその問題こそがこの本の特徴であり、魅力だと思う。先に検討した『気流の鳴る音』から真っ直ぐにつながる「解放のためのテクスト」として書かれたのがこの本である。そのことは副題の「存在の祭りの中へ」がよく示している。宮沢賢治の童話を読むと、どうして心の中を風が通り過ぎていくような感じがするのか。どうして心の中まで透き通ったような気持ちになるのか。どうして宇宙全体に魅入られてしまったような不思議な懐かしさに包まれるのか。そういう賢治文学の魅惑の秘密に迫る鍵がこの本にはいっぱい詰まっているのである。
宮沢賢治の「童話」(少年文学)は、日本の他の作家のそれと比べても独自性が高い。それでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などは、読んで表面的なストーリーは理解可能だろう。それに対し、宮沢賢治理解に欠かせない「詩」は難しい。通常の発想とは違った用語、特に仏教用語や科学用語が頻出するからである。生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』は、亡き妹トシ(とし子)の臨終をうたった絶唱「永訣の朝」のように理解しやすい作品もあるが、冒頭の「序」など何これっていう感じだろう。
わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ) (/は段落分けを示す)
大体「わたくし」は普通の近代文学史の発想では「確固たる主体」であるべきはずだ。それが「わたくしという現象」とまず来る。自我は現象なのか。しかし、昔読んだときはよく判らなかった発想も、今読めば単なる「人類史」を越えた「地球史」「宇宙史」から見れば、人間など一時的な現象である。そもそも書名の『春と修羅』も判らないけど、同名の詩「春と修羅」の中では「おれはひとりの修羅なのだ」と調べも高く宣言する。その直前には「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」とある。この「修羅」とは仏教にある「阿修羅」と同じなのだという。興福寺にある阿修羅像である。
(興福寺の阿修羅像)
興福寺の阿修羅像は優しげだが、実は戦闘神である。サンスクリットの神がいかにして仏教の中に取り込まれたかには複雑な経緯がある。それは省略するが、阿修羅には「諂曲(てんごく)」という特色があり、それは「自分の気持ちをまげて人にこびへつらうこと」なのである。よく知られているように、賢治は父と確執がありながら終生「親掛かり」の暮らしを送った。宮沢賢治の生涯を父の立場から描いた門井慶喜の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』が映画化され5月に公開される。今年は改めて賢治と父の生涯に焦点が当たる年になるだろう。(キャストは賢治=菅田将暉、父=役所広司、妹トシ=森七菜である。)
宮沢家は花巻でも裕福な家柄で、それは家業の質屋と古着商の利益から来たものだった。困窮した農民から質に取った農地を増やして大地主にもなった。父はまた浄土真宗の熱心な信者で、毎年近くの大沢温泉に宗派内の有力者を招いて勉強会を行っていた。賢治はこの家業を恥じて、自分が店番をさせられたときは、農民の言い値で金を貸して父に叱られた。人の苦しみで利益を上げ、その金で自分は上級学校へ行く。若き賢治は耐えがたい恥辱を覚えたわけである。童話『よだかの星』などに見られる強い自罰志向、『グスコーブドリの伝記』に見られる自己犠牲的な主人公の造形は間違いなく賢治の実人生を反映している。
(小岩井農場と岩手山)
だが賢治にとって、父は決して敵ではない。病弱な賢治を必死に看病して、その結果父親自身も病に感染してしまった。恩愛の情と家業へのいたたまれなさ。このような「アンビバレンス」(二律背反)は、我々にとっても決して無関係なものではない。例えば日本で生まれたときには、すでに過去の戦争の傷を背負うし、経済的先進国として「炭素排出量」の大きな社会に生きてきた。将来の地球環境を守るために、自らの生活水準を落とすべきなのだろうか。いつの時代でも、「恵まれた側」に生まれながら鋭敏な感性を持った人間は激しく苦悩してきたのである。
この本は序章「銀河と鉄道」が「銀河鉄道の夜」を読み込んでいないと理解しにくい点がある。しかし、第1章「自我という罪」、第2章「焼身幻想」、第3章「存在の祭りの中へ」、第4章「舞い降りる翼」という構成は、章名を見ればある程度想像出来るような内容になっている。(著者は高校生に読んで欲しいと言っているが、それには難しいかと思うけど。)要するに著者の理解では、宮沢賢治は決して「自罰」や「自己犠牲」を倫理的に説いただけの作家ではないのだ。
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(農民芸術概論綱要)はけっして「自己犠牲」を勧めるマニフェストではない。むしろアメリカ・インディアンの世界観、詩に見られるような「存在の祭り」への志向なのではないか。宮沢賢治はかくして、現在を生きるというか、むしろ「未来」を先取りしたような「思想家」として立ち現れる。「地球環境」が多くの人の意識に上るようになった、そういう21世紀にこそ相応しい「新しい思想家」なのである。そして、それは仏教(法華経)とともに、アインシュタインの相対性理論など同時代の科学の進展に支えられていた。
補章を読んで特に興味深かった点を最後に書いておきたい。紙の上にいる虫にとっては、世界は二次元であり、紙には裏があるということを知らずに生きている。そこに油滴が垂れて紙が透明になったときに、虫も紙に裏があることに気が付くかもしれない。同じように、三次元空間を生きる我々には、四次元空間は感知できない。それでも「世界が透きとおった」瞬間には、賢治のような感覚の持ち主には四次元空間が時空を越えて感知できるのかもしれない。そのような瞬間を感じ取れた賢治の詩や童話に、「透きとおった」「風が吹き抜ける」ような魅力があふれるのは当然なのだ。(賢治ファンでなくても、また一度読んでる人でも、再び三度この本を読むことをお薦めしたいと思う。現在に必要な本だ。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7b/6e/c52bb91e88fa89b6f80ecd88108c3c9a_s.jpg)
もっと後に出た本と思い込んでいたが、84年2月だったのかとまず思った。就職(83年4月)、結婚(83年10月)のちょっと後である。読んで非常に大きな感銘を受けた記憶はあるが、細部をすっかり忘れていたのも当然だ。この本は書かれてから40年近く経っているが、今も重要な意味を持っている。むしろ更に重大性を増しているかもしれない。
宮沢賢治(1896~1933)の名を知らない日本人はほぼいないだろう。しかし「中央では認められず不遇のうちに死んだローカルな童話作家」ぐらいに思い込んでいる人も多いんじゃないか。この本は「20世紀思想家文庫」の一冊である。もっともこのシリーズはトーマス・マン(辻邦生著)、エイゼンシュテイン(篠田正浩著)、デュシャン(宇佐美圭司著)など、普通は「思想家」とみなされない人も扱っている。だが日本人としては西田幾多郎(中村雄二郎著)に続いて宮沢賢治だけが選ばれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/58/9ccc3fdccc7bddd899e7ce2b44966b4c_s.jpg)
宮沢賢治は「思想家」だったのか。まさにその問題こそがこの本の特徴であり、魅力だと思う。先に検討した『気流の鳴る音』から真っ直ぐにつながる「解放のためのテクスト」として書かれたのがこの本である。そのことは副題の「存在の祭りの中へ」がよく示している。宮沢賢治の童話を読むと、どうして心の中を風が通り過ぎていくような感じがするのか。どうして心の中まで透き通ったような気持ちになるのか。どうして宇宙全体に魅入られてしまったような不思議な懐かしさに包まれるのか。そういう賢治文学の魅惑の秘密に迫る鍵がこの本にはいっぱい詰まっているのである。
宮沢賢治の「童話」(少年文学)は、日本の他の作家のそれと比べても独自性が高い。それでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などは、読んで表面的なストーリーは理解可能だろう。それに対し、宮沢賢治理解に欠かせない「詩」は難しい。通常の発想とは違った用語、特に仏教用語や科学用語が頻出するからである。生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』は、亡き妹トシ(とし子)の臨終をうたった絶唱「永訣の朝」のように理解しやすい作品もあるが、冒頭の「序」など何これっていう感じだろう。
わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ) (/は段落分けを示す)
大体「わたくし」は普通の近代文学史の発想では「確固たる主体」であるべきはずだ。それが「わたくしという現象」とまず来る。自我は現象なのか。しかし、昔読んだときはよく判らなかった発想も、今読めば単なる「人類史」を越えた「地球史」「宇宙史」から見れば、人間など一時的な現象である。そもそも書名の『春と修羅』も判らないけど、同名の詩「春と修羅」の中では「おれはひとりの修羅なのだ」と調べも高く宣言する。その直前には「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」とある。この「修羅」とは仏教にある「阿修羅」と同じなのだという。興福寺にある阿修羅像である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0e/06/3c703fba7b3c42a76014aedb550569e9_s.jpg)
興福寺の阿修羅像は優しげだが、実は戦闘神である。サンスクリットの神がいかにして仏教の中に取り込まれたかには複雑な経緯がある。それは省略するが、阿修羅には「諂曲(てんごく)」という特色があり、それは「自分の気持ちをまげて人にこびへつらうこと」なのである。よく知られているように、賢治は父と確執がありながら終生「親掛かり」の暮らしを送った。宮沢賢治の生涯を父の立場から描いた門井慶喜の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』が映画化され5月に公開される。今年は改めて賢治と父の生涯に焦点が当たる年になるだろう。(キャストは賢治=菅田将暉、父=役所広司、妹トシ=森七菜である。)
宮沢家は花巻でも裕福な家柄で、それは家業の質屋と古着商の利益から来たものだった。困窮した農民から質に取った農地を増やして大地主にもなった。父はまた浄土真宗の熱心な信者で、毎年近くの大沢温泉に宗派内の有力者を招いて勉強会を行っていた。賢治はこの家業を恥じて、自分が店番をさせられたときは、農民の言い値で金を貸して父に叱られた。人の苦しみで利益を上げ、その金で自分は上級学校へ行く。若き賢治は耐えがたい恥辱を覚えたわけである。童話『よだかの星』などに見られる強い自罰志向、『グスコーブドリの伝記』に見られる自己犠牲的な主人公の造形は間違いなく賢治の実人生を反映している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/91/ec4a41471b3e887cfa496ea13701d05f_s.jpg)
だが賢治にとって、父は決して敵ではない。病弱な賢治を必死に看病して、その結果父親自身も病に感染してしまった。恩愛の情と家業へのいたたまれなさ。このような「アンビバレンス」(二律背反)は、我々にとっても決して無関係なものではない。例えば日本で生まれたときには、すでに過去の戦争の傷を背負うし、経済的先進国として「炭素排出量」の大きな社会に生きてきた。将来の地球環境を守るために、自らの生活水準を落とすべきなのだろうか。いつの時代でも、「恵まれた側」に生まれながら鋭敏な感性を持った人間は激しく苦悩してきたのである。
この本は序章「銀河と鉄道」が「銀河鉄道の夜」を読み込んでいないと理解しにくい点がある。しかし、第1章「自我という罪」、第2章「焼身幻想」、第3章「存在の祭りの中へ」、第4章「舞い降りる翼」という構成は、章名を見ればある程度想像出来るような内容になっている。(著者は高校生に読んで欲しいと言っているが、それには難しいかと思うけど。)要するに著者の理解では、宮沢賢治は決して「自罰」や「自己犠牲」を倫理的に説いただけの作家ではないのだ。
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(農民芸術概論綱要)はけっして「自己犠牲」を勧めるマニフェストではない。むしろアメリカ・インディアンの世界観、詩に見られるような「存在の祭り」への志向なのではないか。宮沢賢治はかくして、現在を生きるというか、むしろ「未来」を先取りしたような「思想家」として立ち現れる。「地球環境」が多くの人の意識に上るようになった、そういう21世紀にこそ相応しい「新しい思想家」なのである。そして、それは仏教(法華経)とともに、アインシュタインの相対性理論など同時代の科学の進展に支えられていた。
補章を読んで特に興味深かった点を最後に書いておきたい。紙の上にいる虫にとっては、世界は二次元であり、紙には裏があるということを知らずに生きている。そこに油滴が垂れて紙が透明になったときに、虫も紙に裏があることに気が付くかもしれない。同じように、三次元空間を生きる我々には、四次元空間は感知できない。それでも「世界が透きとおった」瞬間には、賢治のような感覚の持ち主には四次元空間が時空を越えて感知できるのかもしれない。そのような瞬間を感じ取れた賢治の詩や童話に、「透きとおった」「風が吹き抜ける」ような魅力があふれるのは当然なのだ。(賢治ファンでなくても、また一度読んでる人でも、再び三度この本を読むことをお薦めしたいと思う。現在に必要な本だ。)