尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『エンドロールのつづき』、インド版『ニュー・シネマ・パラダイス』

2023年01月30日 22時38分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 インド映画『エンドロールのつづき』は映画に魅せられた少年を描く快作。映画と少年といえば、イタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)を思い起こす。映画館に潜り込んで、映写技師の「親切」から映画を見せて貰う。パン・ナリン監督の実話だというが、まさに『ニュー・シネマ・パラダイス』である。同じように映写技師の自転車に乗るシーンもあって、影響は明らか。だけど、この映画はノスタルジックに青春を回想する映画ではない。むしろ「インドの現実」をあぶり出してしまうのである。

 サマイ少年は小さな駅でチャイを売っている。インド北西部のグジャラート州のチャララという小さな町である。父は牧場を兄弟にだまし取られて、バラモン階級の生まれなのに駅でチャイ売りをせざるを得ない。サマイが手伝っているから、学校はどうなっているんだと思うが、それはもちろん行っている。ただし、列車に乗って近隣の町まで行かないといけない。ある日、父が一家を映画に連れて行ってくれる。それは「カーリー女神」の映画だから。そして少年はその日、光のマジックに魅せられてしまった。だけど、父は映画が嫌いである。バラモン階級がやるべき仕事ではないというのである。
(サマイ一家)
 でもサマイはどうしても映画がまた見たくて、ある日学校をサボって映画館に潜り込む。見つかって放り出された時に助けてくれたのが、映写技師のファザルだった。サマイの母が作ってくれる美味しいお弁当と引き換えに映写室に入れてくれることになったのだ。インド映画定番の「歌と踊り」だが、この映画では映画館でやっている映画の中だけに出て来る。『ニュー・シネマ・パラダイス』では映画を見るだけだが、サマイは友人たちと映写ごっこをする。映画館に送られてくるフィルムが缶に入っているのを見つけて盗み出しちゃうぐらいである。(見つかって一時警察に捕まる。)
(ファザルとサマイ)
 サマイは将来映画の仕事をしたくなったが、バラモンだから父が許してくれないと学校の先生に訴える。そうすると先生は「インドには2つの階級しかない」と述べる。それは「英語を話せる階級」と「英語を話せない階級」だというのである。その頃駅で工事をしていて、父がチャイを売りに行くと「線路の拡張工事をしていて、それが終わるとチャイ売りの免許は終わり」と言われてしまう。通知しただろうと言うが、父は「英語が読めないから知らなかった」という。

 この映画の原題は”Last Film Show"である。この題名を見ると、もう一本の映画を思い出す。1972年のキネマ旬報ベストワンになったピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ラスト・ショー』(“The Last Picture Show”)である。テキサスの小さな町に一軒の映画館。多くの思い出が詰まったその映画館がついに閉館となり、最後の映画が始まる。この時の「映画」は当然「フィルム」だった。今回「ラスト・フィルム・ショー」と題した意味はラスト近くに判明する。ある日、映画館の映写機は撤去され、デジタル上映に変わるのである。そして英語が読めないファザルは新機材を扱えずクビになってしまう。
(毎日母はスパイシーなお弁当を作る)
 サマイたちが捨てられる映写機やフィルムの行方を追っていくと、機材やフィルムがリサイクルされていく様子をまざまざと見ることになる。これは2010年の話である。インドの小さな町では昔からの生活と意識が強い。しかし、「階級上昇」のためには「英語」が必須で、そういう現実を突きつけてくる映画なのだ。(インドの場合は事実上旧宗主国の言語を共通の公用語としているから、日本の事情とは相当違うが。)インドの田舎の美しい風景、母親が作ってくれるスパイシーで美味しそうな料理。(『土を喰らう12ヵ月』の精進料理よりずっと美味しそう。)しかし、映画の中には21世紀の世界の厳しい現実が映し込まれていた。

 監督はラストに影響を受けた映画監督、俳優などを列挙している。その中には勅使河原宏小津安二郎黒澤明の名もある。そこまでちゃんと見て欲しい映画。
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