尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ケイコ 目を澄ませて』、聴覚障害の女性ボクサー

2023年01月21日 22時43分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』の評判が高い。2ヶ月近く映画に行ってなかったけど、上映も終わりつつあるので解禁することにした。間違いなく2022年の日本映画でも出色の傑作で、特に主演岸井ゆきのの圧倒的熱演は必見。映像の持つ熱量を信じて作られた作品である。毎日映画コンクール作品監督主演女優の他に撮影月永雄太)、録音川井崇満)の技術部門2つでも受賞した。見れば判るけど、確かにこの両部門は非常に素晴らしい技量を示している。

 この映画は聴覚障害者である小河恵子岸井ゆきの)という女性ボクサーを描いている。実際に小笠原恵子という聴覚障害の女性プロボクサーがいたそうで、その自伝『負けないで!』という本を原案にしている。フィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』という映画が去年公開されたが、そこでは義足でプロを目指す日本人ボクサーを描いていた。日本ではプロのライセンスを得られずフィリピンで練習をしているのである。その映画も実在人物をモデルにしているようだが、こちらは実際に聴覚障害のプロ女性ボクサーの話である。世の中には凄い人がいるもんだ。
(ケイコと会長)
 ケイコは東京都荒川区に育ったと最初に字幕で説明される。東京23区の北東部である。生まれつき聴覚に障害があるという。冒頭でもう試合をしていて、どのような事情でボクシングを始めたのか、それ以前の人生はどのようなものだったかなどは直接は描かれない。弟と一緒にマンションに住んでいて、昼間はホテルの客室清掃の仕事をしている。

 そんな暮らしの様子が淡々と描かれるが、そこに至った事情は判らない。2つの試合に勝って、記者が取材に来る。ジムの会長三浦友和)が答えているが、突然入りたいと言ってきて熱心に毎日通ってくる。プロになりたいのかと聞くと、テストを受けると言って合格した。学校時代はいじめられていたらしいなどと会長が答える。素質はないけど、素直なんですよという。
(ケイコと会長)
 説明的要素はほぼ会長による取材対応だけで、映画はひたすらケイコの練習、試合を映し出す。岸井ゆきのは相当にトレーニングを積んで撮影に臨んでいる。だが映画の特徴は「ボクシング映画」としての完成を目指さない。ボクサーを描く映画は多いけど、試合を重ねてチャンピオンになるか、挫折するかという経過をドラマティックに追うのが普通だ。それに対して、女子ボクサーを描く場合、「スポーツ映画」とはちょっと違うことが多い。何故ボクサーになるのか、そこへ至る孤独や絶望を扱うのである。

 まして、この映画の主人公は聴覚障害者である。主に手話で意思疏通を図っている。言いたいことが伝えられず、また周囲の会話を理解出来ない。だからコンビニでも困るし、警官に職務質問されても説明出来ない。その困惑と孤独を岸井ゆきのの鋭い目つきと鍛えられた肉体で見せるのである。圧倒的な存在感に見るものが押されてしまうぐらいだ。この「肉体」を映像として提示するわけだが、映像の原初的な迫力を思い出させてくれる映画だった。そして主人公の姿を撮影や録音が的確に捉えて映像化する。
(三宅唱監督)
 この映画は東京東部でロケされている。「荒川区出身」と出るが、むしろトレーニングをしているのは足立区の荒川土手だろう。(荒川区は荒川に接していない。荒川区が誕生した当時は今の隅田川が荒川で、新たに開かれた荒川放水路が荒川と呼ばれるようになったのは1965年のことである。)また手話で話す友人と会うのは浅草。北千住駅前と思われる映像も出て来る。会長のジムは奇跡的に空襲を免れた古い地区にあるとされる。このような東京東部の映像が映画を落ち着かせる役割を果たしている。

 監督の三宅唱(1988~)は世界で注目される若手有望監督の一人である。商業映画としては『きみの鳥はうたえる』があった。脚本は三宅唱と酒井雅秋。ケイコの弟をやってる佐藤緋美は浅野忠信とCHARAの子だそうである。ケイコの母が中島ひろ子、会長の妻が仙道敦子と懐かしい顔ぶれが演じている。なお、アカデミー賞を取った『コーダ』は聴覚障害者が当事者を演じていたのに対し、この映画では健常者が演じている。近年は民族性、性的指向、障害などで「当事者性」を重視する傾向が強い。それも必要だと思うけれど、「俳優」には自分と違う役柄を演じる演技力が求められる。当事者性を強調し過ぎると、人を殺したことがある人しかギャングを演じられないなんてバカげたことになりかねない。
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