ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読む2回目。昔読んだときの本を探し出してきた。なんと1972年に出た初版を持っていたので驚いた。いつ買ったのか不明だが、1982年まで読まなかったのは確か。値段は950円で、300頁ほどの本である。文庫で600頁を越える本が300頁で収まるのは、小さな字で二段組みなのである。今ではとても読む気になれない。一番最後にジャン・ジュネ、ノーマン・メイラー、トーマス・マン、カミュの全集の広告が載っている。こういう作家の全集を買う読者がいて、そういう読者層向けに『百年の孤独』が出版されたわけだ。今ではちょっと考えられない人選だろう。
(初版本)
文庫ではアウレリャノ・ブエンディアと書かれているが、初訳ではアウレリャーノ・ブエンディーアと長音になっている。前に読んでる人は、そっちに慣れているだろう。帯を見ると「まさしくあのホメーロスや、セルバンテス、ラブレーが描いた〈巨大な人間劇場〉!」とうたっている。なるほど間違いじゃないだろうが、今はこのような受け取り方は少ないと思う。20世紀の小説は人間心理の深淵を究める方向に進み、さらに「物語性」を否定する「ヌーヴォロマン」へ至った。そんな時に現れた『百年の孤独』は、大昔のセルバンテス、ラブレーのような「ホラ話」の復活と思われたんだろう。
(スペイン語版)
この小説を改めて読み直してみると、「全部愛の話」だと思った。そもそもその後に書かれた『コレラの時代の愛』や『愛その他の悪霊について』など、ガルシア=マルケスほど「愛」、それも「奇怪な愛」を書き続けた作家はいない。もちろんどんな作家も愛を描くし、ガルシア=マルケスだって「権力」や「宗教」も考察している。短編の場合だと、特にテーマを打ち出さず「奇想」をそのまま描いた作品も多い。しかし、なんと言ってもガルシア=マルケスの最大のテーマは「愛」だった。「愛」を裏返せばもちろん「孤独」である。『百年の孤独』は題名にあるように「孤独の考察」でもあるが、それは「愛の不在」でもある。
『百年の孤独』のブエンディア一族は「愛」に憑かれているが、愛に恵まれない。およそ(普通の意味での)「幸福な結婚」から生まれた子どもがいない。「正式な結婚」は不幸な運命しかもたらさず、ブエンディア家を継ぐ次世代は母親や父親が判らぬような子どもばかりが多い。もっとも「正式な結婚」をするためには、町に行政当局や教会がなくてはならない。マコンドは何もない状態から建設された町で、つまり「平家の落人」みたいな一族なのである。それにしても複雑な愛と性の絡みあいが何回も繰り返される。それらは幸福な結実を見ずに終わることばかり。一方で愛を拒絶して自ら孤独に沈潜する人も多い。「孤独癖」の一族でもあった。そして一番最後に現れた本当の情熱こそ、延々と生き続けたウルスラの「予言」の成就だったとは。
(執筆していた頃)
ガルシア=マルケスの小説はすべて「章」がない。つまり長編小説の場合、普通「第1章」「第2章」などと分かれている。章なんて書いてなくても、数字の「1」「2」などで分けられるのが普通だ。それがないから延々と最後まで切れ目がないのかと最初は心配するだろうが、さすがにそんなことはない。何十頁か読むと、数字が付いてないだけで明らかに判る区切りがある。この巨大な小説は、「愛」をテーマとみなした場合、前半は「ウルスラ」、後半は「フェルナンダ」の時代となる。もっとも後半になっても初代ホセ・アルカディア・ブエンディアの妻であるウルスラ・イグアランは全然死なないけど。
それでも明らかに一家の主導権(二代目家母長)は、初代から見てひ孫世代のアウレリャノ・セグンドが祭で見初めて遠くの町まで求婚に出掛けて結ばれたフェルナンダ・デル・カルピオに移る。敬虔なカトリックで「家風に染まぬ嫁」だったフェルナンダは、結果として子どもたちに不幸をもたらして孤独のうちに世を去る。それが「女系」で見た『百年の孤独』だが、これを「男系」で見るとまた違ってくる。ブエンディア一族こそ、2代目の「アウレリャノ・ブエンディア大佐」とひ孫世代の「ホセ・アルカディア・セグンド」(フェルナンダの義兄)という偉大な伝説的抵抗者を二人輩出した一家なのである。
(執筆当時頃の夫妻)
コロンビア内戦で伝説的な自由の闘士となったアウレリャノ・ブエンディア大佐は、将軍になれるのに一生「大佐」を名乗っていた。(まるでリビアのカダフィ大佐だが、カダフィの方が後である。)出世のために起ち上がったのではないのだ。国家と無関係に生きてきたマコンドに、国家権力が入り込み横暴を極める。そしてついに町の若者が蜂起するが、その時リーダーとなったのが町を作った一族のアウレリャノだった。そして何度も何度も死地をくぐり抜け、伝説的な勝利と敗北を繰り返し最後は町に戻ってくる。自由党幹部がいくつかの大臣の椅子と引き換えに「停戦」を承諾して、現場の戦闘員は切り捨てられたのである。
これはコロンビアで実際に続いた内戦を描いている。19世紀から20世紀に掛けて「千日戦争」と呼ばれる3年も続く内戦が繰り広げられた。アウレリャノ・ブエンディア大佐は他の作品にも出て来るが、抵抗のシンボルとしての「永久革命家」である。しかし、実際の戦争の中で彼も変貌していく。恐るべき政治的思考に囚われていくのだ。さらに戦場のあちこちで「献上」された美女たちとの間に、すべてアウレリャノと名付けられた17人の子どもまで産まれた。しかし、彼らは新しい蜂起を恐れる国家の謀略で次々に殺害される。大佐は部屋に閉じこもって、蜂起以前の仕事だった魚の金細工に打ち込み、恐るべき孤独の中で死んでいく。
後半になると、鉄道が敷かれ「文明」が押し寄せる。ブエンディア家がアメリカ人観光客にバナナを提供したことから、バナナの特産地であると知られた。アメリカの会社がバナナ農園を築き、行政や警察の庇護のもとマコンドの新しい支配者となった。アメリカ帝国主義による経済的植民地化で、中南米各国は「バナナ共和国」と呼ばれた。余りに過酷な労働条件に怒った労働者がストを起こしたとき、そのリーダーがホセ・アルカディア・セグンドだった。しかし闘争は敗北し、軍隊の発砲で3千人が死亡し死体は海に捨てられた。この大虐殺は政府が事実と認めなかったので、やがて「そんなことは起こらなかった」と忘れられた。
このような国家的な「フェイクニュース」により人々の記憶が消されていく状況は、現代の世界で多く見られる。中国の「天安門事件」を若い世代が知らないというが、記憶の抹殺と言うべきだろう。同じようなことが20世紀初頭のマコンドで起こり、すべては忘れ去られた。そして4年間の大雨でバナナ農園は壊滅し、人々はバナナ農園があったことさえ忘れていく。何という歴史的な「孤独」だろう。こうして、愛の年代記の裏にあった抵抗の年代記も、恐るべき孤独をもたらすのである。『百年の孤独』は奇想のマジック・リアリズムばかり言われるが、コロンビア民衆の抵抗の歴史が刻まれた書であることももっと重視するべきだ。
(初版本)
文庫ではアウレリャノ・ブエンディアと書かれているが、初訳ではアウレリャーノ・ブエンディーアと長音になっている。前に読んでる人は、そっちに慣れているだろう。帯を見ると「まさしくあのホメーロスや、セルバンテス、ラブレーが描いた〈巨大な人間劇場〉!」とうたっている。なるほど間違いじゃないだろうが、今はこのような受け取り方は少ないと思う。20世紀の小説は人間心理の深淵を究める方向に進み、さらに「物語性」を否定する「ヌーヴォロマン」へ至った。そんな時に現れた『百年の孤独』は、大昔のセルバンテス、ラブレーのような「ホラ話」の復活と思われたんだろう。
(スペイン語版)
この小説を改めて読み直してみると、「全部愛の話」だと思った。そもそもその後に書かれた『コレラの時代の愛』や『愛その他の悪霊について』など、ガルシア=マルケスほど「愛」、それも「奇怪な愛」を書き続けた作家はいない。もちろんどんな作家も愛を描くし、ガルシア=マルケスだって「権力」や「宗教」も考察している。短編の場合だと、特にテーマを打ち出さず「奇想」をそのまま描いた作品も多い。しかし、なんと言ってもガルシア=マルケスの最大のテーマは「愛」だった。「愛」を裏返せばもちろん「孤独」である。『百年の孤独』は題名にあるように「孤独の考察」でもあるが、それは「愛の不在」でもある。
『百年の孤独』のブエンディア一族は「愛」に憑かれているが、愛に恵まれない。およそ(普通の意味での)「幸福な結婚」から生まれた子どもがいない。「正式な結婚」は不幸な運命しかもたらさず、ブエンディア家を継ぐ次世代は母親や父親が判らぬような子どもばかりが多い。もっとも「正式な結婚」をするためには、町に行政当局や教会がなくてはならない。マコンドは何もない状態から建設された町で、つまり「平家の落人」みたいな一族なのである。それにしても複雑な愛と性の絡みあいが何回も繰り返される。それらは幸福な結実を見ずに終わることばかり。一方で愛を拒絶して自ら孤独に沈潜する人も多い。「孤独癖」の一族でもあった。そして一番最後に現れた本当の情熱こそ、延々と生き続けたウルスラの「予言」の成就だったとは。
(執筆していた頃)
ガルシア=マルケスの小説はすべて「章」がない。つまり長編小説の場合、普通「第1章」「第2章」などと分かれている。章なんて書いてなくても、数字の「1」「2」などで分けられるのが普通だ。それがないから延々と最後まで切れ目がないのかと最初は心配するだろうが、さすがにそんなことはない。何十頁か読むと、数字が付いてないだけで明らかに判る区切りがある。この巨大な小説は、「愛」をテーマとみなした場合、前半は「ウルスラ」、後半は「フェルナンダ」の時代となる。もっとも後半になっても初代ホセ・アルカディア・ブエンディアの妻であるウルスラ・イグアランは全然死なないけど。
それでも明らかに一家の主導権(二代目家母長)は、初代から見てひ孫世代のアウレリャノ・セグンドが祭で見初めて遠くの町まで求婚に出掛けて結ばれたフェルナンダ・デル・カルピオに移る。敬虔なカトリックで「家風に染まぬ嫁」だったフェルナンダは、結果として子どもたちに不幸をもたらして孤独のうちに世を去る。それが「女系」で見た『百年の孤独』だが、これを「男系」で見るとまた違ってくる。ブエンディア一族こそ、2代目の「アウレリャノ・ブエンディア大佐」とひ孫世代の「ホセ・アルカディア・セグンド」(フェルナンダの義兄)という偉大な伝説的抵抗者を二人輩出した一家なのである。
(執筆当時頃の夫妻)
コロンビア内戦で伝説的な自由の闘士となったアウレリャノ・ブエンディア大佐は、将軍になれるのに一生「大佐」を名乗っていた。(まるでリビアのカダフィ大佐だが、カダフィの方が後である。)出世のために起ち上がったのではないのだ。国家と無関係に生きてきたマコンドに、国家権力が入り込み横暴を極める。そしてついに町の若者が蜂起するが、その時リーダーとなったのが町を作った一族のアウレリャノだった。そして何度も何度も死地をくぐり抜け、伝説的な勝利と敗北を繰り返し最後は町に戻ってくる。自由党幹部がいくつかの大臣の椅子と引き換えに「停戦」を承諾して、現場の戦闘員は切り捨てられたのである。
これはコロンビアで実際に続いた内戦を描いている。19世紀から20世紀に掛けて「千日戦争」と呼ばれる3年も続く内戦が繰り広げられた。アウレリャノ・ブエンディア大佐は他の作品にも出て来るが、抵抗のシンボルとしての「永久革命家」である。しかし、実際の戦争の中で彼も変貌していく。恐るべき政治的思考に囚われていくのだ。さらに戦場のあちこちで「献上」された美女たちとの間に、すべてアウレリャノと名付けられた17人の子どもまで産まれた。しかし、彼らは新しい蜂起を恐れる国家の謀略で次々に殺害される。大佐は部屋に閉じこもって、蜂起以前の仕事だった魚の金細工に打ち込み、恐るべき孤独の中で死んでいく。
後半になると、鉄道が敷かれ「文明」が押し寄せる。ブエンディア家がアメリカ人観光客にバナナを提供したことから、バナナの特産地であると知られた。アメリカの会社がバナナ農園を築き、行政や警察の庇護のもとマコンドの新しい支配者となった。アメリカ帝国主義による経済的植民地化で、中南米各国は「バナナ共和国」と呼ばれた。余りに過酷な労働条件に怒った労働者がストを起こしたとき、そのリーダーがホセ・アルカディア・セグンドだった。しかし闘争は敗北し、軍隊の発砲で3千人が死亡し死体は海に捨てられた。この大虐殺は政府が事実と認めなかったので、やがて「そんなことは起こらなかった」と忘れられた。
このような国家的な「フェイクニュース」により人々の記憶が消されていく状況は、現代の世界で多く見られる。中国の「天安門事件」を若い世代が知らないというが、記憶の抹殺と言うべきだろう。同じようなことが20世紀初頭のマコンドで起こり、すべては忘れ去られた。そして4年間の大雨でバナナ農園は壊滅し、人々はバナナ農園があったことさえ忘れていく。何という歴史的な「孤独」だろう。こうして、愛の年代記の裏にあった抵抗の年代記も、恐るべき孤独をもたらすのである。『百年の孤独』は奇想のマジック・リアリズムばかり言われるが、コロンビア民衆の抵抗の歴史が刻まれた書であることももっと重視するべきだ。